時々以下の様に思ったりする事があります
世界とは見ている人が、どの次元にいるのかによって全く異なった
世界が知覚されています。
知覚(目)とはそれぞれの次元によって異なるので、見えている世界
も異なるのです。
ですからこの私の現在意識とはどの次元の私の意識でしょうか?
脳の記憶か?
それとも、私はその脳と結合したので脳の思考や感情や行為を
自分が行為していると錯覚している神の子(但し未成熟)の私か?
・霊の私か?
・ハイヤーセルフと呼ばれている魂の私か?
・神の子であるのだが脳の記憶と一体化してしまっている未熟なサイコ
ノエティック体(魂と繋がる表面意識)の私か?
・それとも脳が眠るときに一緒に眠ってしまう記憶人格の私か?。
それは、見ている人が「どの次元にいる私」なのかによって知覚も異
なっているということです、目が異なると見えている世界も異なって
いるわけです。
この私達が見ている世界とは脳の記憶(受動思考)が見ている世界
なのではないか?
それともハートにあって未熟な魂の私(能動思考)が見ている世界か?
または高次な私、魂の私、ハイヤーセルフの私(思考を超えた超意識)
が見ている世界か?
彼岸にいる人と此岸にいる人では世界が異なるのは、それぞれの次元
によって知覚認識する目が異なるからであり、
高次の次元の知覚の目には現象世界での、たとえ地獄の中にいても
実相である天国しか知覚されないことでしょう。
魂の私は、闇にいても光しか見えていないのです。
ラマナ・マハリシ達アドヴァイタの聖人は現象次元という物質界、死
後の世界の特徴・「私は個人であって人類はひとつの私ではない」と知覚
されている自他分離の次元世界ではない自他一体の実相世界・彼岸と言
われる高次次元にいて、そこから知覚しています。
しかし私達はラマナ・マハリシ達の次元ではなくカルマの法則が支配
する脳の世界にいて「自他は分離し、私が思考し行為している」と知覚し
ている記憶と一体化してしまっています。
それがこの物質界と死後の幽界や霊界が見る世界や宇宙です。
その「私は他の人達とは異なる」というこの分離次元の知覚認識は【私は
自分が行為している】【私は私、私は個人】という脳が受信し送信した錯覚
であり、この錯覚の現象次元においてはカルマの法則が完全完璧に作動し支
配しています。
何故カルマの法則があるのかと云えば、それは私達とは自他が別れて
いるように見えていても、実際は一つ、私達は一体だからなのです。
これが本当の私であり、あなたは私であり、私があなたであるから
こそ「自他一如」・・これによりカルマの法則が働いているのです。
(何百兆とある細胞が一人の人体を構成しているように)
ラマナ・マハリシ達のいる次元は自他が分離している次元の知覚ではなく、
既に自他を分離する「個人が行う行為や思考がない次元」であり、「私が
いない次元}であり、
その次元ではカルマの法則は超越されていることでありましょう。
自他が分離していない、私達は一つである。という真実の知覚である実相
世界です。
しかしながら私達は頭脳と一体化して自分は個人であると錯覚し、頭
脳からの思考や感情を、自分が思考し、見ていると錯覚し、頭脳から
興っている行為を自分が行為していると錯覚してしまっているので、
その錯覚を真実だと信じている限り、霊的成長はありません。
また同じ様に頭脳と一体化して「自分は個人であって、私は自分以外の人
間の行為や思考には責任がないのだ」と錯覚している以上は、私達は
個人のカルマ、そして地球人類としてのカルマから逃れられることは
ないとおもわれます。錯覚している私も他の人も一つの私なのです。
ですから私が思うに
私達は「自分は個人で他の相手の人とは別人だ」、という脳の知覚と
同一化したこの錯乱した錯覚状態の中にいる限りは、
私達は脳からの思考や行為を自分が思考し行為していると信じ込んで、
「私が思考し、私が行為している」という虚偽の中にいるのですから、
即ちこの状況とは
ハートにいる私達が肉体脳や記憶としての幽体霊体と一体化しているの
で私達は個人のカルマや地球人類としてのカルマの法則の中にいて、カルマ
の法則は避けて通ることが出来ません。
ここで私達「ハートにいる未熟な神の子」は覚悟を決め、脳と一体化し
ていても、私達は脳ではなく脳の記憶では無いことを信じることです。
脳が行っている行為や、脳が送受信している思考とは私達ではないこと
を信じようではありませんか。
そして肉体にいる以上は
自分個人としてのカルマと、地球人類としてのカルマを共に身に受け
感謝して受け容れなければなりません。
個人として起こるすべての出来事、無視されたり、欺されたり、襲われ
たり、疑われたり、殺されたり、不安や恐怖に苛まされ襲いかかる自我
の衝動 etc.を全て感謝して受容しなければなりません。
そしてまた好むと好まざるとに関わらず地球人類としての避けて通れない
過去からの人類としてカルマ(起こる一切の出来事・思考感情・意志・戦争
・知覚・認識・暴力・恐怖・不安・競争心・自己関心・自我・私)に直面し、
それらに愛を与え、全てを甘受して、カルマに感謝しなければなりません。
私達が「自分は肉体だとの知覚があり、自分が行為し、自分が思考している
との錯覚の世界」にいる以上は、(即ちハートにいる私達が脳と一体化して
しまっている以上は、カルマの只中にあり一切の自分にやってく
ること・・それは、良いことも悪いことも、病気も、健康も、失敗も成功も、
死も、性も、悪魔も天使も、敵も味方も・・感謝して愛し受け容れなけれ
ばなりません。
そしてその受け容れようとしている自分自身に対しても、感謝して愛し受け
容れなければなりません。
その自分自身とは私達たましいからのサイコノエティック体の自分自身ではなくて
肉体の脳が受送信した記憶の私のことです。
苦しみはカルマを受け容れず感謝していないことから始まります。
肉体を私のものだと思っているこの私は、パソコンと同じような脳が
受送信した記憶なのです。自分のことを私だと思っているのは脳の記憶・・。
そして
その脳の記憶を私だと錯覚し、同一化しカルマに巻き込まれている私は
未熟ながら心臓の近くにあるハーの私、神の子の私、霊魂の私。
肉体は神のもの。
脳も神のもの。
その脳と云うパソコンが送受信している記憶が○○という偽りの私の事。
細胞も、原子も、素粒子も、量子も神のもの。
健康も病気も、不幸も幸福も神のもの。痛みや苦しみも神のもの、
善も悪も、敵も味方も、不幸も幸福も、希望も絶望も、良きことや
悪きことも、殺す者も殺される者も、天使や悪魔も一切は神のもの。
起きていることや、起きていないことも一切は神である。
何故ならば、この自我である私とは神の演技。
その神の演技をハートに在る魂の私は自分自身と錯覚してしまったのだ。
この記憶の私、即ち自我の私とは神が演じておられるのである。
神が意志し、意識し、記憶し、行為しておられるのである。
私は脳ではないので思考も行為もしていない
全ての人、全ての私、動物や植物や鉱物や物質や非物質の私は神が
演じておられるのである。