地球人にも分かるようにわざわざUFOや宇宙船に乗ってきている様に見せて
いるのです。
地球人にも色々と異なる人種がいるように、ブラザー達にも色んな考えや
覚醒段階の異なる星々の方々もおられることでありましょう。が、同じ兄弟
姉妹であり、同じく人間、同じ神の似姿であることには全く変わりがあ
りません。
地球人にも魂の発達度合いが異なる人がいるように、宇宙人にも我々地球人と同
じに色んな方がおられるのでありましょう。が、しかし、それら色んな段階
・次元の宇宙人の方々も私達と全く変わらない同じ構造の人間でありましょう。
宇宙人の方々も肉体は少し異なっていても地球人と同じ一霊四魂構造なのです。
グレーと呼ばれる宇宙人は宇宙人の乗り物として宇宙人が創り使用している
身体で宇宙人本体ではありません。地球で云えば弘法大師の分身のようなも
のです。ということは高度のブラザーは弘法大師と同じ段階の人達でしょう。
今後の地球開星でのオープンコンタクトに備え地球人側の注意すべき点は、
私達が地球人を国籍や人種や能力で人間を分離分割してはならないように
惑星や星座や銀河系の違いで同じ人間(宇宙人)を区別してはならない、
ということ。彼らは時空間の壁を乗り越えてこの地球に来ていることからも
分かるように、その惑星とは、かなりな次元の進化を果たしているけれども
決して、神ではなくて崇拝対象でもなく、私達と同じ神の子、同じ「真我」
であるということでありましょう。
それなのに、私と宇宙人とを分離して見ている私達こそ、「肉体と一体化し
ている【私という観念】」であり、人間を地球人類だけだと思い込んでしまっ
ている「集合無意識」であるということでありましょう。
魂は肉体でもなく、思考でもなく、行為でもなく、私の中に世界はあり
、宇宙は私の中にあり、私はあなたであり、万物の中に私は在り、私は万
物であると教えられております。これが究極の彼岸側から見た真実であり
ましょう。・・・しかし、いまこの私達は彼岸にではなく「自分が行為し
ている」と実感する「無明の此岸」にいる以上は、この教えはこのままこ
の此岸の私達には知覚認識できないのです。
というのも私達(魂・鏡)である表面意識は記憶と混濁していて、殆どが
左脳と接触しているため、私達の内なる魂・ハートの知覚認識や意識が
表面意識に知覚されてないからです。
地球人は「私という観念」と一体化し、「私という観念」が思考しているの
に、自分が思考していると思い込んでいます。又「私という観念」が行為
しているのに自分が行為している、と固く信じ込み、私はあなたであるの
に、私はあなたではない、だからあなたをよくしなければならない!と、
私の中に世界が有るのに世界を変えなければならない!等と、思い
込んでいます・・・
しかし、ここに落とし穴があります。・・それはこの言葉や
この観点は現在の状態の私達の観点ではなく、霊魂からの、「一霊」
の次元から賢者がいわれている言葉なのです。それを理解もせず喋っ
ています。
無知の次元にいる私達と覚醒した賢者の知覚は全く異なっています。
現在の無知無明の次元にいる迷える私達にはこの言葉はかえって、私達
の進化を妨害してしまうので注意が必要です。
上記の言葉は現象界ではなくて実相界の次元からの目、高次の知覚で見た
真実なのです。実際の私達は脳に縛られ下位のセンターにいるわけです。
私達は虚偽の中に生きているわけで、真実を知覚することが出来ないのです。
私達は私という観念(虚偽の次元)の中に生きています。
私は「起こっている私という観念」と一体化して生きています。
私が見るもの、知覚できるのは全てが無明で虚偽なのです。
実相においては
私達は自分は霊であり神の子であり、すべての対象は私であり、「私の中に
宇宙が有る」のですが、そのことを完全に忘れ果てているといわれています。
霊的解剖学によれば
A:「輪廻転生していない魂と繋がる高次思考体感情体であるサイコノエティッ
ク体」=能動思考・純粋思考と、
B:その輪廻の度毎に新たにその転生にて身に纏う肉体と共に成長する思考・感
情体(幽体霊体)=個人人格(受動思考)があって
通常私達が幽体霊体と云っているのは、肉体と共に形成される受動思考・受動感
情体であるBであり、
それはこの自分を肉体だと思っている「私という観念」の記憶でもあり、人
格のことでもありましょう。その人格を魂からの私が自分だと錯覚しています。
人格という私、それは「私という観念」の記憶の反応です。
私達である魂からの高次サイコノエティック体の私は殆ど眠っている
からです。
私達の表面意識の私とは、たましいの鏡のことですが、この鏡を
覆っているこの思考体感情体の私と私は一体化してしまっています。
この記憶の私は自分と他者を分離し、他者を利用して生きています。
私達の表面意識の現在意識とはこの他者を利用している自我・エゴ
そのものなのです。
記憶には「見るものは見られるものである」は理解出来ないのです。
が、しかし究極は、私達は鏡なのです。
鏡を見ている私は鏡に映っている私であり、その両者の私とは「鏡である私」
ではありません。自我です。この自我が鏡である表面意識を覆っている現在
意識です。
この我の私が自分だと思っている私とは鏡に映る記憶のことであって、鏡自体
の私ではありません。
そしてこの現在意識の私とは鏡自体の私ではなく鏡に映っている記憶の私の方
なのです。
この鏡に映っている私とは、鏡を見ている私であり、それは鏡ではないのです、
自我の私です。
この私は、自分が行為していると実感しているこの思考体感情体の私であって
カルマによって誕生した肉体と一緒に形成された思考感情体=人格の私のこと
です。
この私は「万物と一つである私」神の子の私を覆う記憶です。
この「鏡からの未発達のサイコノエティック体の私」が同一化してしまって
いるのがこの私です。この私が同一化してしまっている私とは、記憶の
私で、人格の私のことです。自分が行為していると実感している私です。
それは、カルマによって、転生の度毎に異なった人種や国に生まれる私の
こと。自分が行為していると錯覚している私の事・・・それ故にこの自我
の私は「偽りの自由意志」を行使して行為を正さねばなりません。
この現在意識の私とは肉体と一緒に産まれた幽体霊体の意識に他なりません。
それは自分が行為していると実感しているこの偽りの私のことです。
相手とは自分自身のことだということが全く分からないこの私です。
この自我の私とは【高次元】(※自我の源泉)からの受動思考の私、
記憶の私と云われている表面意識を覆い隠している私のことです。
自分が自分の意志や努力で人の人生を生きていると錯覚している私
の事です。
このカルマの領域にいる思考体感情体のこの私(記憶)には、決して
思考や行為が思考者や行為者であるこの私(記憶)なしで起こってい
るのだとは夢にも思えません。
この思考者、行為者としての私は実は起こっている思考や行為の記憶
であり映像だからです。
この記憶の私は「自分が行為している」、「私が思考している」
「他人は私ではない」、「私は肉体だ」と実感しており、自分が
思考し行為していると知覚認識(実際は錯覚)しています。・・
・・で、そうである以上はこの記憶の私は、自分自身である記憶の私を
「偽りの自由意志」でもって、愛さねばなりません。自分を含めて一
切万物に感謝しなければなりません。
この私は
私に襲いかかる悪魔や化け物や殺人者は私自身であるのに、それは私
ではなく敵だと認識しています。
私の敵や殺そうとしている相手とは私自身なのに「汝の敵を愛せず」
に敵と戦ってしまっています。
自由意志は起こっているのに、私は自分が自分の自由意志で選択し行為して
いると実感しています・・・ですからその偽りの自由意志が重要なのです。
・・・ですのでその自他が分離している錯覚の次元に私達がいる限りは
その記憶・自我の私の偽りの自由意志を使って「汝の敵を愛し」「自分を殺
す者のために祈れ」という正しい行為(八正道)を自我がしなければなりません。
即ち自分が行為していると知覚している限りは、いくらラマナ・マハリシ
の本を読んで、自分は行為していないと思い込んでも、この迷いの次元の中
では、私達は起こっている偽りの自由意志を用いて正しい行為をしな
ければなりません。正しい思考をしなければなりません。
正しく生きなければなりません。・・カルマを愛さねばなりません。
正しい行為とは「汝の敵を愛せよ」です。
正しい思考とは一切万物に感謝し、自分を捧げることです。
私達が根本無明の中にいる間は
自分が行為しているという錯覚の中で、正しい行為をなさねばなりません。
自分を愛し、敵を愛し、生き物を愛し、空気を愛し、物質を愛する必要が有ります。
くどいようですが、
再度云うと、この自分が行為しているとの、虚偽の知覚・実感がある間は、この
私とは記憶です。記憶の私は正しい行為を、偽りの自由意志でもって行
う必要が有ります。自我(私という観念)である以上は愛と感謝を自分
も含めて一切万物に捧げなければなりません。
如何なる時も、如何なる状況でも一瞬一瞬を愛と感謝の波動で生き
なければなりません。内と外に起こる出来事を愛と感謝で受け容れ
八正道を実践しなければなりません。自分自身を愛さねばなりません。
自分自身に感謝しなければなりません。これが記憶の私の正しい道です。
私を高次の私と低次の私に分離、分割しているのは、低次の私です。
高次の私とは低次の私にとって未知なる私なのです。
しかしこの低次の私にとっては高次の私とは、単なる観念であり、低次
の私が思考する高次の私は低次の私が投影した低次の私の延長です。
高次の私には全てが神であり、神以外に何も見えていないことでしょう。
魂の私であるなら、全ては私であり、私の中に世界があるからです。
そういうわけで宇宙の中に悪魔や敵を見ている私は魂の私ではあり
ません。それらを見ているこの現在意識は記憶の私なのです。
悪魔やブラックや敵や味方を知覚し、善悪を知覚認識しているこの
私とは、魂の私ではありません。記憶の反応です。一つであるものを
分離分割しているからです。主体と客体に分離しているからです。
世界や宇宙を私の対象と見て、世界を改善しようとしている私とは起こっ
ている思考や行為の記憶の反応に他なりません。
何故なら、その私は世界や自分自身も対象と見ているからです。
本当の私であるなら私と世界を分離したり、私とあなたを分離したり
、自分自身を低次の私と高次の私に分割したりはしないからです。
思考や行為やカルマは「私という観念」が肉体・人格・幽体霊体を通じて起こ
しているのであって、老子達が云うように本当の魂の私は行為していないので
ありましょう。魂の私にとっては、その次元から見た場合は思考や行為や出来
事は起こっている映像なのです。
ラマナ・マハリシ達が教えるように、その魂からの次元から見れば「全ては
起こっている」「全てよし」「誰も行為していない」「全ては完全完璧である」
ということになっているわけでありましょう。
それはまた、ラーマクリシュナがいうように私は神の映像と言うことなのかも
知れません。この超越次元から見た場合は、
私が生きているのではなく、神が私として演じておられるのです。と、
賢者達はこのカルマの次元領域を超えた魂の私として、彼岸からこの起
こっている思考や感情や行為や出来事である私を観照しておられます。
そしてその思考し行為している記憶の私を高次元から映画を見ているよ
うに観照しているのだ・・と教えられております。
この彼岸からの魂の知覚をラマナ・マハリシやクリシュナムルティー達は
「誰も何も行為していない」などと話すのですが・・この自他に分離して
いて自分が行為していると実感している映画(三界)の中の私には、その
映画を観照しているこの魂からの言葉は全く理解することが出来ませんし
その言葉を自我がそのまま自分に適応することは誤りであり、危険です。
自我である記憶の私にはラマナ・マハリシ達は何を言っているのか全く理
解出来ません。・・勿論この私がそうなのです。
この私は記憶の反応、起こっている思考と感情と行為の結果なのです。
この私は自分が自由意志で行為し、思考していると錯覚しています・。
それゆえに、その錯覚の中では、記憶の結果である私は正しく思考し、
正しく行為しなければならないのです。
この私の知覚には「分離」という錯覚しかなく正しい知覚がないので、
誤解することしかできないのです。ですから誤解の中で虚偽の自由意
志でもって正しく思い行わなくてはなりません。
私が推測するに・・高次元の彼岸から見た場合
・・これは非常に高次の知覚なのですが・・・・
この自分が行為していると錯覚している私とは・・
映像の中の私なのでありましょう。
三界という現象界の映画の中の登場人物がこの私です。
それは映画を観照している魂の私ではありません。
この「自分が行為していると実感している私」とは新たな転生で肉体
の胎児の形成と同時に母体内で形成されていくアストラル体メンタル
体の私のことであって、受動思考の私です。それはこの人格のこの私
の事です。
その私と異なり、未知なる魂の私とは
母親との臍の緒が切断されたときに最初の吸気と共に脳に結合され
、肉体に入ってくる魂と繋がる高次サイコノエティック体の私のこと
であろうとおもわれます。これは観照者の私です。
ですので思考体感情体にも二つの系統があり
私という観念が肉体に結びつき「私は肉体である」と錯覚し、カルマに基
づいた思考感情体とその集合無意識の私。「自分は個人で他者ではない」
「私と世界は別々だ」「私は肉体で、私が行為している」のだと実感して
いる記憶、人格の私。
一方は輪廻転生していない魂と繋がっているが未熟な高次思考感情体の私。
いわゆる神道で言う所の一霊四魂と呼ばれる魂と繋がるが未熟で
未形成の思考感情体・サイコノエティック体の二つがあり
さらに肉体には入らず頭上に輝き転生していない時空を超え、自他の分離
を超え宇宙と一つである魂自身の鏡としての「万物と一つである超意識の私」。
観照者の私。「I AM」。
いずれにせよ
地球人にせよ宇宙人でも構造はみな同じなのですけれど
その魂と繋がるサイコノエティック体の再形成度合(状態・程度)によって
話す内容も違ってきます。
宇宙人は地球人に理解して貰えるように
自分を肉体やカルマを持った肉体側の思考体感情体に分かるように
「私は○○星人」だとか「私達は○○銀河系人種です」とか話したり
しているのだということです。宇宙人によっては一番外側の肉体と一体化
しているいわゆるカルマの領域にある幽体や霊体(魂と繋がる高次サイコ
ノエティック体のことではない)意識のレベルである場合もあるのかも
知れません。・・私には目が覚醒していないので見ることが出来ないのですが。
魂と繋がるサイコノエティック体が再形成し覚醒していれば、自分を肉体と
同一化して、自分は○○星人だなどという自分と相手を分離する知覚感覚
はなく、内部と外部の分離や、時間空間という認識形式の意識もないことであ
りましょう。それは「I AM」であり、観照者の意識であることでありま
しょう。
しかしそれでは地球人には意味が伝わらないのでわざと「私は○○星人」
だと言っているのだということでありましょう。
色んな星の方々もそれぞれの星の深化段階によって、異なる次元にいる
と言うことなのであると思われるのです。
しかしすべては同じ真我であるように
全ての宇宙人類はこの地球にあっても他の銀河にあっても同じ構造の
魂、宇宙人類はみな全員が神の子であり一つなのでありましょう。
私達人類は一つ、善悪や敵味方、悪魔と天使を含め一つなのです。