朝晩の祈り

2024/07/07(日)
わたしは朝晩このように祈っています。

地球や宇宙の一切万物よ、細胞や、原子や電子そして素粒子よ、
ありがとうございます、愛しています、本当にありがとうございます。
私よありがとうございます、愛しています。
「私は肉体ではありません」
「私は心でもありません」
「私はわたしです」
「I AM I」
「私は在る。成るのではなく、為すのでもなく、至るのでもなく、私は在ります」
「一人ひと宇宙、人はみな神の細胞」



肉体よ、ありがとうございます愛しています。
  ・心臓よ、ありがとうございます愛しています。
  ・呼吸よ、ありがとうございます愛しています。
  ・脳よ、ありがとうございます愛しています。
  ・臓器よ、ありがとうございます愛しています。
  ・手足や、血液や、神経よ、ありがとうございます愛しています。
  ・全ての細胞よ、体内の微生物よ、ありがとうございます愛しています。
  ・病気や、健康や、障害や、才能よ、ありがとうございます愛しています。
  ・誕生や死亡よ、ありがとうございます愛しています。
  ・肉体よ、いままであなたを苦しめ痛めつけて御免なさい許してください愛しています。


心よ、ありがとうございます愛しています。
  ・心に沸き起こる欲望や衝動よ、ありがとうございます愛しています。
  ・心に潜む潜在意識よ、過去世からの因縁よ、御免なさい、許してく
   ださい、ありがとうございます、愛しています。
  ・心に棲み着いている過去世の私達よ、あなたを無視して御免なさい、
   許してください、ありがとうございます愛しています。
  ・心よ、マーヤよ、カルマよ、因縁よ、ありがとうございます愛しています。
  ・心に浮かぶ受動思考よ、ありがとうございます愛しています。
  ・家族、親族先祖の皆さんよ、私の周りの全ての人よ、血縁、
   地縁の皆さん、ありがとうございます愛しています。
  ・視覚や聴覚や味覚や嗅覚や触覚そして全ての脳の知覚よ、ありが
   とうございます愛しています。

起こることのすべての全て一切よ、ありがとうございます愛しています。
   ・カルマよ、時間と空間よ、ありがとうございます愛しています。
   ・起こる良いことや、良くないことよ、ありがとうございます愛しています。
   ・私を苦しめる私よ、相手や敵よ、ありがとうございます愛しています。
   ・私に関係する全ての人達や物事や組織や環境よ、ありがとうございます
    愛しています。
   ・受動思考である自尊心、恐怖心、プライド、暴力、イライラ、増上慢、
    心配、不安、独占欲、無関心よ、ありがとうございます愛しています。
   ・私が知覚認識する万物一切よ、ありがとうございます愛しています。
   ・生あるものも、生なきものも、エレメンタルや、エンティティーや
    想念形態もあらゆるものよ、ありがとうございます愛しています。
   ・家や土地や環境や壁や家具や車や道具やPCよありがとうございます
    愛しています。
 
私よ、ありがとうございます愛しています
   ・私と世界を分離し認識している私自我よ、ありがとうございます愛しています。
   ・瞑想し、自己観察し、自己想起している私よ、ありがとうございます
    愛しています。
   ・自他を分離していると錯覚する私自我よ、ありがとうございます愛しています。
   ・私は世界や宇宙そして、世界や宇宙の万物一切とひとつではないと錯覚してい
    る私よ、見る者と見られる対象が同じではないと錯覚し、思い込んでいる私よ、
    ありがとうございます愛しています。
   ・自我よ、私自身よ、ありがとうございます愛しています。
   ・未熟な自己探求する私、能動思考の私、諸霊体の私よ、ありがとうございます
    愛しています。
   ・現在のパーソナリティーでありサイコノエティック体である能動思考の私よ、
    そしてその脳の記憶である受動思考と一体化してしまっている知覚主体や認
    識主体よ、ありがとうございます愛しています。
   ・体験し、記憶し、判断している受動思考と能動思考の混合している私よ、
    ありがとうございます。愛しています。
   ・観察者、思考者、体験者、見ている私よ、ありがとうございます愛しています。
    行為も知覚も起こっているのに、それを自分が為ていると錯覚する記憶の私よ、
    さらにその記憶の私と一体化してしまった霊的諸体の私よありがとうございます。
    そしていまこれを祈っている私よ、愛していますありがとうございます。

在る!

在る!
「する」のではなく「為されている」
「成る」のでもなく「実現している」
「至る」のではなく「至っている」


既に在る!
私は在る!




※成ろうと努力する事とは成っていることから離れることである。
 何故なろうとするのか?
 成ろうとしているのは誰なのか?
 と問えば。
 それは、成っていない、至っていない私であり、その私からなのであって、
 その成ろうとすること自体が、
 この至っていない、実現していない状態・次元から発しているのであり、
 その発しているものの波動に共鳴して同じ波動を引き寄せてしまうのです。
 そうして、その実現していない状態・次元を呼び集め更に強固にし、至らない
 その次元に留まることとなるのである。

 求めることとは欠乏しているからであり、求めること自体が欠乏を証明している。
 欠乏しているからこそ求めているのであって、求めることとは、その欠
 していること・状態を現しており、
 求めるということで、自分がその欠乏状態を認識していることで
 その欠乏状態が欠乏状態を招き寄せて欠乏状態を強化してしまうのである。
 波動が共鳴し、同じ波長のものを呼び寄せてしまうのである。

 渇望することで私達自身がその渇望状態に縛り付けられてしまっている。

 幸せを求めることで、私達はその幸せを求めている不幸せ状態をさらに
 強化してしまう。

 求め願うことで成っている状態からかえって遠ざかってしまうのである。
 それに引き替え最初に感謝する事はその感謝している状態を実現させる
 ことになる。

 幸せではないから幸せを求めるのであり、その幸せを求めること自体が
 幸せではないことを証明しており、不幸せを知覚し不幸を強めている。
 悟っていないから悟りを求め、悟りを求めることで、悟りから私達は
 離れてしまう。悟りを求めることで自分自身をその無明に縛り付けて
 しまっているのである。

 それ故に、既に実現されていることを感謝する事、信じることが、それの
 実現を齎す。同じ波長が同じ波長を招くのである。
 既に実現しているとして、そうであることを信じ、想像し、身を委ね
 感謝して神の子として思い行うことが、それを実現するのである。

 何かを実現しようと努力する事が、実現していない状態を再認識させて
 しまい、その思考を集中させることで、その思考が物質化してその思考
 を実現してしまう。
 思考することでその実現していない状態を固定し強化してしまっている。

 私達は自分が神の子であることを、最初に認め、まず始めに自分に感謝
 する事が「自己想起」であり、その方法なのである。

 クリシュナムルティーが言うように「成ろう、在ろう、至ろうとするこ
 ととは、在ることから遠ざかってしまう」のである。

 真我に至るのではなく、既に真我である・・このことを信じるのである!!

 真我に成るのではなくて既に真我なので在ると感謝し信じることなのである。

 確信し、信んずればその想念・思考は実現する。

 受動思考を実現化させるのではなく能動思考を使って内なる真の私IAM

 を強く念じ、強く信じ思うことは実現する。


   
記憶の自分のことを私だと思っているのは受動思考であり、その受動思考と言う
記憶と自己同一化してはならない。
私達の表面意識とは記憶の反応の受動思考と混濁していても、魂に繋がる能動
思考なのである。

私達の表面意識の能動思考は、今のところは未熟で目が覚醒していないが、
信じ、思い描くことなら出来る!!そしてそれは物質化し実現する!!

自分は肉体であり、自分は思考であり、自我だと主張している受動思考と私達
能動思考は同一化してはならない!!
見る者であり見られるものである受動思考と一体化してはいけない。
自分は恐怖であると、恐怖を知覚対象として認識しているその恐怖である受動
思考だ!
魂と繋がる能動思考である私をその記憶の反応である受動思考と同一化しては
ならない!!
恐怖を知覚している者は恐怖であり、それは記憶の反応であって能動思考の私
ではない。

私達、未熟なサイコノエティック体=魂の私は、記憶である受動思考と自己同
一化してしまい、「自分は自我であり」、「自分は肉体」で、「自分が生きている」
と思っているのだが、そう思っているのは私達を幾重にも取り囲んでいる記憶、
受動思考に他ならないのだ。
自分は自他に分離し自分は肉体だと主張している受動思考と同一化してはならない!

神の子である私は未熟で目が開いていなくても、記憶の私、自我の私、受動思考
の私なのではない!!

私は魂と繋がる神の子であり、自分を肉体や恐怖や自我だと思っている受動思考・記憶
ではないのだ!!
その受動思考を観照している能動思考なのだ。
私は「自他を分離し、内部と外部を分割し、神と私を異なると見ている受動思考・記憶」
ではなく魂と繋がる能動思考なのだ。

私は神の子であり
今は未熟で
その知覚がなくても、自分のことを神の子であると信じることは出来るのである。


ミルダッドは「最高度の知性は想像力であり、信念である」といっています。
それは科学とは、実は「条件付けられている脳による知覚」にもとずく未発達な
知性だと言っているのである。

科学的とは実は、条件付けられている脳からの理性であり知性なのである。
何故ならば、科学とは同じ条件下でテストを繰り返し、再現可能な事柄のみを
正しいとし、自らが非常に限定されている知覚による、自主的ではない認識方法
であり、科学とは、その限定されている知覚以外を否定してしまう範囲の狭い認識
形式であるのである。
実はこの科学的思考とは人間を怠惰で深く考えないので、懐疑精神や、自己観察
能力を削いでしまい、常識という名の脳や感覚からの条件付けられた受動思
考しか受け容れられない状態にしてしまっている最低の知性であることに
私達は全く気が付いていない。人類はこの科学的思考と言う宗教に縛られて
いるのである。

それに引き替え想像力や正しい自己探求に基づく信念は高次の理性なのである。

この条件付けられている脳からの受動思考では全く理解出来ない真実がある・・


以下の事柄は未発達の魂のサイコノエティック体による能動思考が透明となり
自分自身である魂の超意識と繋がるときに理解出来る言葉なのであろう。

「最小は最大である」
「ひとつの細胞の中に全ての宇宙が有る」
「あなたは私で、私はあなたです」
「外部は内部であり、内部は外部である」
「有情無情のあらゆるものの目は私の目であり、私の目の中に万物の眼がある」
「見るものは見られるものである」(心が心を見ている・・心は私ではない)
「私は世界で在る」
「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」
「思考は起こっているのであり、思考している人は存在していない」
「行為は起こっているのであり、行為している人はいない」

「私が非難しているその敵やその相手とは実は私自身なのである。」
「私が殺そうとしているゴキブリは私自身なのである。」
「私が変えようとしているこの世界や社会や組織会社や相手とは
 私自身なのである。」
「世界は私であり、私が世界なのであり、私の中に世界がある」






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