今朝思ったこと・・
誰が生きているのか?
生きているのは誰か?
この呼吸は自分が呼吸し、意識は自分が意識していると
思っている私・・
この行為は自分が行為し、思考は自分が思考していると
思っている私・・
この肉体は自分の肉体であり、この脳は自分の脳だと
思っている私・・
・・誰もが信じて疑わない私というこの自分
・・それはこの私が創ったのであろうか?
この私は私なのか?
本当にこの私は私であるのか?
それともこの私は自分を知らないだけなのか?
この私には知られることの無い私が存在しているのではないのか?
この個人人格の私とは脳が反応し受信した記憶なのであって
それは脳が受信した思考なのではないか?
それは、地球人の誰もが信じて自分だと確信しているこの私・個人人格
の私のことだが・・。
この人格の私は自分で生まれたのではない。
気が付いたら、この人種で、この国民でこういうプログラム、運命、
カルマを持って生まれて来たのである。私には私を選ぶことは出来ない。
・・これは「自分は特別だ」と誰もが思っているように他の生き
物達と全く同じである。
そもそも自分が生きて自由に思考し行為していると思っているが、
この私とは、本当に自分が思考し行為し生きているのであ
ろうか。
生まれることもそうであるが、死ぬことも自分の自由意
志で死ぬのではない。決まっていることが決まったように一瞬の
狂いもなく正確に起こっているのではないか?
よくよく観察すれば欲望も願望も思考も感情も行為も
そして私自身もそれらは起こっていることなのではないのか?
実際のところは、
この個人人格の私とは結果であり、記憶の集合であり虚構なのではないか。
このことは、よくよく考えれば私達個人は他の生き物と全く同じように
自分が生きていると思っているが、他の生物と同じく生かされている被
創造物なのではないのか?
・このことは該当する次元よりも上位の次元に意識があることによって
その観察が可能になることだろう。
この私という観念の個人の私=記憶の私を使って生きておられるのは、
万物を生みだし万物を生かしておられる大生命・「至高の実在」なので
はないのか?
この個人人格の私や万物の私を生みだし生きておられるのは、
被創造物のそれぞれの個人人格の私や万物という私ではなく「至高
の実在」なのではないか?
肉体や脳という最高傑作を創造し「私」として生きておられるのは
「至高の実在」であることだろう。
記憶という個人人格、この想念形態、エレメンタルである私を創造し
呼吸し、DNAを使役して生きておられるのは「至高の実在」であるこ
とだろう。私達個人人格は神の演技なのだ。
この個人人格の私とは諸体と脳が受信したその記憶である「私という観
念=思考」の反応なのではないか。
この記憶が「私は肉体で個人だ」「肉体や脳は私のもの」と錯覚し「自分
が生きて呼吸し、脳は自分のもので自分が思考して、自分が行為している」
と勘違いしている。
そして未熟な魂の私は、肉体を纏い、脳と結合し脳に閉じ込められ、脳
の知覚から一歩も外に出ることが出来ずにいて、魂が未発達である私達の
極めて限られた意識は、この記憶の反応に焦点を合わせて一体化してしまっ
ており、記憶の反応である個人人格を自分だと信じ込んでいるのではないか?
この個人人格の私とは大生命・根源から投影された映像「想念形態」
「エレメンタル」でもあることだろう。
この個人人格の私とは、いわゆる霊的物質、質料即ち記憶なのだ。
記憶物質それは又、想念帯、霊的記憶質料などとも言われているが、
それが此の私、この個人人格の私であることだろう。
霊魂と共に肉体の死後も生き続けているのがこの記憶の私である。
畢竟詮ずれば、この個人人格の私とは神の演技であることだろう。
私達は私という観念であり人類で一つで一体の記憶体なのだ。
自分は個人で自分が生きていると錯覚している「人類共通の地球を
取り囲んでいる記憶帶」なのであることだろう。
それが鏡であり霊魂である私達の表面にベッタリと覆い私達霊魂の
知覚や意識を塞いでしまっているのだ。
息をしているのは誰か?
心臓を動かしているのは誰か?
食べたり飲んだり消化して排泄して生きておられるの誰か?
脳を使って神経や筋肉を正確に動かし行為しておられるのは誰か?
生まれ、老い、苦しみ、病み、そして死んで行くのは誰か?
それは至高の実在である。
それは脳が受信した思考や感情の記憶なのではない。
思考や感情や記憶を創り、未知なる鏡(霊魂)に投射投影し
心臓を創り、心臓を死ぬまで動かし肺を創り、毎日規則正しく呼吸をし
脳を創り脳を使い、意識を発生させ、見て聞いて話して感じて考え行為し
DNAを創造し、霊的諸体を創造し、それらを使い、運命やカルマを動かし
神経を創って五感を自在に操り、思考や感情、意識や感覚や記憶を使って
行為し、筋肉や細胞や毛細血管の連携を完璧にあらしめ、そして行為し
何兆もの細胞をかくの如くに完全完璧に統合し、私という個人の意識を
発生させ、生殖させ、成長させ、老いさせ、病気にさせ、死なせておら
れるのは「至高の実在」「大生命」「源泉」。
私という虚偽の思考や感情を生み出し
その記憶を使い
自己という意識を発生させ
私という虚像を使って
競争させ、戦い、殺し合い、死なせ、生かさせ
その様にして個人人格の私を演じ現象三界に投影
されておられるのは
「至高の実在」「大生命」「真我」である。
「至高の実在」「大生命」「真我」が苦しみ悲しみ殺し殺される演技を
なされておられるのではないか。
そのマーヤの中に私達霊魂はいる。
「至高の実在」が
私と貴方が異なっているという錯覚
自他の分離という虚像
私と世界の分離という錯覚
自己・私というエゴ・諸偽我が自分だという錯誤
主体と対象との分離という虚偽
見る者と見られるものの分離という嘘
即ち
私と貴方の分離、私と世界の分割、私と宇宙の分離
即ち私という虚像を
生みだし
その「根本無明」を使って三界という現象界を演じて
生きておられるのではないか。
個人人格の私は、それらと同じ神の映像である。
個人人格の私は鏡の私ではない。
個人人格の私とは神の演技、映像であって。
神が個人の私として演じておられるのではないか。
全ての個人人格は神が生きて演じておられるのだ。
神・至高の実在が自らの鏡(分け御霊・神の子・霊魂)
にマーヤ・無明を写し出されて生きておられるのである。
この鏡、それが黒住宗忠師のいう私達であるところの神の分け御霊
私達である霊魂のことであろう。
私達はこの個人人格の私=記憶ではなく霊魂であり
既に神の子なのではないか。
この神の分け御霊という何兆とある鏡に
根本無明である「我の心」の現象世界が写し出されているのだ。
その「我の心」を私達は自分自身だと錯覚してしまっているの
ではないだろうか。