思考と意識

2024/05/28(火)
私達の思考には次元を異にする三つの異なる私の思考があり、
それらは魂の意識の中にあって、夫々の私の思考が「自分は私」であ
ると言っています。
なのでそこから派生している思考や知覚は、それぞれが夫々での次元
で、異なる知覚認識をしているのであります。
夫々の私が夫々、異なっている世界を知覚しているのであります。

1:受動思考
  条件付けられている脳が受信した思考の記憶の反応。
  通常は私達はこの記憶の反応を自分自身だと確信してしまっている。
  (魂からの私が私だと錯覚してしまっている私・記憶の思考のこと、
  教育や伝統の結果である人格の私、脳やエレメンタルからの思考の私)
  一般的には個人人格、自我と言われている現在のパーソナリティーで
  この記憶が知覚認識して思考し、行為している。
2:能動思考
  魂の未形成の霊的諸体からの能動思考(通常、魂と呼ばれている
  が正しくは魂の持つ未発達な霊的諸体の思考・感情のことである)
  神が生きて行為しておられる肉体に入って、肉体が産まれ死に、
  殺し殺され、苦しみ、痛むのを自分と自分を同一視していて悩み
  苦しんでしまっている転生している私。
  サイコノエティック体の私からの思考のこと。
3:魂という意識そのものからの高次思考
  私には魂からの目が開いていないので今の段階では殆ど発現して
  いない超思考即ち意識の事。
  判断や評価や好悪や個人的なものではない純粋知性。純粋理性。
  (私・人格からの個人的ではない意識からの思考)

以上、思考には、これらの思考と称されていても各思考は
それぞれの次元での異なっている私からでもありましょう。

受動思考は記憶の反応であって私の思考ではありません。
受動思考は脳を経由した三次元の思考、
能動思考は未形成の霊的諸体の四次元の思考=私であり、
高次思考は魂からの思考であり、
その思考は極くたまに人間にも体験されている五、六次
元からの高次思考でありましょう。

この六次元の高次思考には私という分離している人格の持
つ自己意識はないといわれております。
その私とはアチューメント・同調という一切万物と同調している
次元の私なのでありましょう。

マティアス・デ・ステファーノスによれば、これ以上の
七・八次元とは大天使や諸天の神々の次元であり九次元は
真我の次元だと言っています。
そしてその真我の九次元に至るには三次元と六次元からしか行け
ないと言っています。それは即ち肉体が必要だということなので
ありましょうか。

ここでの五次元の住人に関してのことは、私達にとっては全く未知なので
六次元以上の高次の存在と錯覚してしまう危険性があります。
未来や過去の事を知っている住人を高次元の存在だと錯覚してしまう危険
性があるのです。
この五次元の存在者とは時間や空間を超越しているので
その五次元の住人にとっては過去や未来が同時に存在しており、観察する
ことが出来ますので、未来や過去を知っているわけです。
その次元では時間空間の制約は存在しておらず、その次元には世界のあらゆる
場所や時間があると言うことですし、その次元にいる存在者とは、この三、四
次元の次元観察者のことであり、過去や未来を自由に知ることが出来、自由に
往来できるのでありましょう。
しかし、彼らは依然としてその観察者は自他に分離している私であり、対象で
ある世界を自分ではないと見ている分離次元にいる存在なのです。
その観察者がいる次元はこの三・四次元とは異なり、過去と未来と現在と
いう時空間の制約はなくても私と世界は分離したままでありそれは現象世
界の一部なのです。
宇宙人や幽界や霊界の住人達を決して神と錯覚してはなりません。

これを超えた純粋精神、魂や霊・純粋精神は自他に分離していない意識
でありますが、しかしながら私の霊的諸体が再構築されていない限りに
おいては私達には知るよしもありません。

私達はこの輪廻している三・四次元の人生において、自分自身
と受動思考とを全く同一視しており。神が生きておられる肉体
なのに、自分の肉体だと信じ込んでおり、私にやってきている受動
思考を完全に自分自身がそう思考しているのだと信じ込んでお
ります。
肉体や脳や記憶と私達は一体化してしまっているので、
心に浮かんでくる想念や思考や感情や意志や行為を自分が思考
していると錯覚しているのです。

私達には条件付けられた脳からの蓄積した記憶の反応なのか、
外部からの想念形態の思考なのかが分からない状態です。
そして更に悲しいことに私達がこの三・四次元にいる限りは
その記憶と共に行為したことによって私達は行為してしまい
カルマを創り出してしまっています。

私達には高次元の目が形成されていないので受動思考と能動思考
の区別が全く出来ないでおります。
私達が神の生きておられる特定のプログラムされた肉体に入った
ので想念や行為や自由意志と、は起こっていることなのに
自分が思考して行為している・・とその様に思い込んでいます。

私達が知覚認識しているこの次元では、この二つの異なる思考が混在し
知覚されていますが、それがこの受動思考と能動思考の私でもあります。

受動思考とは人類の脳が受信している「私という観念」の思考であって
その記憶は人格や個人と呼ばれており、私達はその受動思考の記憶
のことを私だと誰もが錯覚して固く信じ込んでいます。

しかし、この思考の記憶の私は、単に記憶の反応であって、私達の
反応ではないにもかかわらず、私達人類はこの脳が受信している思考
即ち記憶を私だと誰もが固く信じ込んで疑うことがありません。

受動思考は脳が受信した思考であって、それはAIと同じく記憶であり
記憶の反応です。
私達はその記憶の反応を自分自身だと固く錯覚しているのであります。

私達はソフトやその記憶で動いているパソコン画面に映っているPCの登場
人物を完全に自分自身だと一体化しています。

そして記憶と同一化しているので記憶が思考しているように思考し、記憶が
行為しているように行為することで更なるカルマを身に背負って
しまっているのだと思うのです。




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