「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」・・黒住宗忠師

2024/05/25(土)
「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」・黒住宗忠師

この言葉は
天照大御神と一体になった神道の黒住宗忠師の有名な言葉です。

ではこれは、どういう意味なのでありましょうか?

まず始めにこの言葉は黒住宗忠を通しての超高次元の天照大御神からの
言葉であり
人間界の私達人類に、知覚認識できる三次元の思考や言語を使用して
人間界の私達人類にも分かるよう語られている言葉であるというこ
とを始めに知らなければなりません。

この言葉は「自と他」、「私と貴方」、「私と世界」、「見るものと見
られるもの」が分離していない超高次元からの言葉である、ということを
始めに知らねばなりません。
この言葉は、
三界という現象世界からの言葉ではなく、実相界という彼岸からの言葉です。

では改めて
「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」を見てみましょう。

「人の心は鏡なり」とは?
私達の本体は対象を写し出している鏡だということであります。
私達は肉体ではなくて、「心」が本体であり、心が私達であり、
即ち鏡が私であり、且つ、その鏡には世界宇宙、万象が写し出さ
れているのであると言うこと。

では「立ち向かう人の心」とは?
人間の頭脳が持っている知覚認識形式は「立ち向かう」という認識
形式であり、
常に認識者と認識される者、知覚者と知覚される者、
私と他者、私と世界、私と妻や夫や子供達、私と机、私と敵味方、また
見るものと見られるもの、主体と客体、私とあなた・・という具合に、
一切の全てを、そして更に外部だけではなく、内部も、高次の自己と
低次の自己、観察者の自己と観察される自己・・などなど
世界をわたしと立ち向かう対象として分離して見知覚認識する
形式であります。
そのことを黒住宗忠師は「立ち向かう人の心」と表しておられます。
黒住宗忠師は、またその心は鏡なのだが、鏡に映っているものとは、
それは「我の心」であると説かれています。
そして
しかしながら如何に「立ち向かう人の心」であってもその人の心の鏡
には「我の心」が映っていると仰います。

私達には未知な私でありますけれども。
私達とは脳ではなく、心であり、その心とは世界を映している鏡なのだ!と。
私達は肉体ではなく、世界を映し出している天照大御神の分霊の鏡であると
仰っているのです。

では「己が姿を写してや見ん」とは?
そして私達の心である鏡には世界や宇宙や家族や出来事や思考や行為、
感情やエゴが写し出されておりますが
その鏡がなければこの鏡に映し出されている宇宙や世界は存在し
ていないのである。
と言っておられます。

それはまた、その人の心である鏡がなければ地球や世界
や宇宙や家族や戦争も葛藤や恐怖や不安や学校も職場も存在し
ていないということであります。

世界や宇宙とは私達の鏡に投影されて映っているもの、鏡にあるもので
あって、故に、世界は私の内部にあり、宇宙は私の内部にあり、外部は
心という内部の鏡に映っているものである。
と言われています。・・全く何のことを言っているのか理解出来ま
せんが。
・・・これは仏教で言う「三界は唯心の所現」ということであります。

これは脳が創り出している地球人類の常識や科学などにとっては馬鹿
げた話しのように聞こえます。

・・これは勿論、現在の頭脳の知覚ではなく、頭脳を創造した根源の
知覚。天照大御神という超精神から、この人間界の次元を超えている
高次元から仰っておられる言葉なので、私達の条件付けられている頭脳
には認識出来ないのは全く以て当然です。

しかしながら天照大御神は黒住宗忠師を通じて
人の心とは天照大御神の鏡であり
その鏡には世界や宇宙が映し出されているのだ。
と言っているのです。

そして、その鏡に映し出されている
己が姿を「鏡に移して見なさい」と言われております。

その天照大御神の分け御霊である人の心と言う鏡には
己が姿(我の心、私という観念=神のマーヤー)が写し出されており
「その己が姿を見なさい」「非実在を非実在として見なさい」と
言われるのです。

では「己が姿」の己とは何でしょうか?
この人類の脳で受信され記憶となった「私という観念」即ち人格・
私が思い、考え、悩み、記憶し、私として行為していますので、
その私の事を、己と言っております。
ですから己とは人類で同じように個人としての自己意識の事であ
りましょう。その自己意識とは実際には脳の記憶に過ぎません。
その記憶が神のマーヤであり、神が私達人間の私・個人として生きて
競い戦い人生で意志し行為していると言うことでありましょう。

そしてそのことをその脳の記憶である受動思考の私ではなくて、
輪廻して継続している現在のパーソナリティーの能動思考、さらには
もっと高次次元の魂の私である「意識」からの超思考で見なさい
と言われるのです。

人類の人間には三つの私があります、そして三つの次元の異なる
眼があります。
一つ目は肉体の私、今世の脳の状態の私。
二つ目は、教育を受けて育った記憶・人格の私。
そして三つ目は転生を通じて同じ生き続けている未形成のサイコ
ノエティック体の私です。

魂の私である意識は三つのサイコノエティック体が形成されて
いないと意識化されません。あくまで自己意識の主体は三つの目の
サイコノエティック体の私ですから。

そういうわけで
自分の姿を汚れなき鏡の私から、たましいから思考なく見なさい、
私なくして見なさいと、黒住宗忠師はいうのです。

自己観察で自己を正しく見るためには観ている主体を鏡へと
移して鏡として見なさいと言われるのです。
その鏡とは無我であり、私無しで見なさいと言われるのです。

しかし
肉体に入って条件付けられた頭脳と一体化している私達は受動
思考と頭脳の自他を分離するその認識形式しか働いていないので
私達にはこの黒住宗忠師のいう言葉は全く理解出来ないのです。

黒住宗忠師は
私達人間の心即ち「天照大御神の分御霊である鏡」に映っている
自我を「我の心」と仰っています。

この「我の心」とは神が生み出した神のマーヤであり、人類では
全員で同じのエゴ・自我です。そしてこのエゴ自我は自分は個人で
肉体は私のもので、私が生きていると錯覚しているのです。
この個人人格こそ人類で一つの「私という観念」即ち我の心です。

そして黒住宗忠師はこの「我の心ではない鏡」というスクリーンに
投影されている映像である世界、即ちエゴ、自我という「己が姿」
のことを
「見る主体を受動思考から能動思考に移行し」
 さらに、見ている主体を
「鏡に移して」、「鏡」として見なさい
・・即ち
「受動思考」ではなくて、「鏡」として、私という観念の思考
や感情や希望や恐怖や行動
という「己が姿」を見なさい。と仰っておられるのです。

これは具体的には、
自分自身を自分の本体の汚れなき神の子の鏡へと
移して、鏡から鏡として非難無く見なさい。
その鏡・人の心である無垢透明な鏡から鏡に映っている
「己が姿」である心の内部と対象として見えている外部、
世界のことを私の鏡に映っている私の内部として
「己の姿」として直視しなさいと教えておられる
のです。

それが黒住宗忠師を通じて人類へ齎された、非常に難解で
高度でありこの分離次元を超えた天照大御神からの教えです。
それが
「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」でありましょう。

神のマーヤである「我の心」とは人類共通の「一つの私という観念」で
あり、私達である鏡を覆っている自我エゴであります。
(それなのにこの自我は自分こそが私であり鏡の私は自分
ではないとその様に頑強に言い張っています)
その我の心・自我とは脳が受信した記憶であります。

私達である鏡は肉体に入り脳と結合し、そしてこの神のマーヤである
『人類で一つの「我の心」』と一体化して、「私は個人で私の肉体だ、
私が行為して、私の自由意志で私が思考しているのだ」と地球人は
全員がそのように思っているのですが、それは地球人類が同じ同一の
私という観念であり、私という観念がそう思考しているのであります。

肉体は神のものであり、神が呼吸し、神が心臓を動かし、神の生
きておられる肉体を、同じく神のマーヤが生み出した「私とい
う観念=我の心」がカルマに従って自分の人生を生き、思考し、
行為しておられるのです。
神が一切万物の私として生きておられるのです。

そして
この事を高次元から観照しているのが魂である鏡なのです。








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