私は大自然の結果

2024/04/20(土)
今朝、以下の事を思ったりしました。

私は大自然の結果。

行為は行為が起こっているように行為されている。肉体が行為している。

私とは起こっている行為の結果だ。
私とは行為の記憶だ。
記憶の私自分が行為を起こしていると思っていても、その私は行為していないし
行為は出来ない。
行為は脳が脳内伝達物質の指令を受け筋肉を動かしているのである。記憶はそれを
自分が為たと錯覚しているのである。
行為も一切の出来事も起こるべくして起こっている結果であると思う。
起きている行為とは偶然ではなくて必然なのだと思う。

思考も思考が起こっているように起きている。
私が思考しているのではない。思考は脳で受信発生され自動的に起きている。
出来事や思考という起きていることは既に決定されているのである。
それらは脳で受信され脳と一体化している「記憶」が自分が思考している
と確信しているのだ。
私とは記憶であり思考の結果だ。
その脳に起こっている思考を私は「私が思考している」と錯覚している
事に気がつかない。

見ることは見ることが起こっている。この視覚は肉体のものだ。
私が見ているのではなくて見ていること(視覚)が起こっているのだ。

知覚も感覚も自己意識も思考も行為も起こっている事の結果であり
私とは、その起こっている事の結果でありその記憶なのだ。

私が知覚しているのではなくて脳が知覚しているのだ。
その脳の知覚を、記憶が私の知覚だと錯覚しているのである。

私が生きているのではなくて肉体が生きています、それは大自然の一部です
肉体の細胞と同じく一部を全体から切り離すことは出来ません。
一部は全体でもあるからです。
神聖なる肉体、・・それは大自然の一細胞です。

大生命が肉体を創り、肉体を使って心臓を動かし、そして息しています。
私が息しているのでありません。息しているのは肉体です。肉体は私ではありません。
決して私が肉体を創ったり、心臓を動かし私を創ったのではありません。
息し心臓を動かし、私という「虚偽である記憶」を創って動かしている
大生命が本当の主体なのです。
私個人という意識を使って生きているのは大生命であります。

肉体は大自然のものであり、全くもって私のものではありません。
私とは動物や植物や物質のように大自然の一部です。
肉体も、その結果である私も大自然の一部であり、その結果です。
大自然が私の主体なのです。

脳は私のものではなく肉体のもの、そして肉体は大自然、大叡智のものです。

脳からの思考や知覚や行為が起こっているのであり、その記憶が私なのです。

そしてその記憶が自分が肉体に起こっている思考や行為や知覚のことを自分が
思考し行為しい知覚していると錯覚しているのです・・・動物を見れば
人間と同じです。
私が思考したり知覚し行為したりしていません。生きているのは私ではなくて
肉体を創ったクリエーター創造主です。

思考や知覚や行為は肉体に起こっているのです。
私が思考し知覚し行為しているのではなくて
肉体が思考し知覚し行為しているのです。私はその記憶なのです。

そして肉体は大生命、大叡智が作り使っておられるのです。
私という記憶を使って生きておられ大叡智こそ主体なのです。

私とは脳によって生じている脳の結果である記憶なのです。
私とは脳の記憶なのです。その記憶が「私の肉体だ」と錯覚しているのです。
肉体は大自然を構成している一部分であり、大自然の結果なのです。
宇宙を創った大自然が呼吸し行為し私として生きておられるのです。

脳が生み出す思考や知覚や行為は記憶(私・集合無意識)のものではありません。
私とは脳の結果であり、私とは脳が生み出した思考や行為の結果即ち記憶です。

脳を創った大自然が
脳を使い思考し悩み知覚し苦しみ行為しておられます。
全ての人間の私自我として、生きているのは大自然なのです。

私とは、結果即ち起こったことの記憶であり、その記憶が
自分が人生を生きているのだと錯覚していますが人生を生きて
おられるのは神です。

私・記憶は起こっている事の結果です。
私という実態は虚像にしか過ぎません。記憶だからです。
実際には私とは起こっている大自然の結果・記憶なのです。

そのようにして、その大自然がその様な錯覚を起こさせているのです。

ラーマクリシュナは言います

「私・自己・自我は神の演技、神の仮面、神の映像です。私は映像に過ぎません。

私が人生を生きているのではなくて神が私として人生を演じておられます。」


ですから
私という記憶には思考や行為を生み出すことは出来ません。結果だからです。
思考や知覚や感情や行為は起こっているのであり、私とはその記憶・結果です。

私が人生を生きているのではありません。人生を生きているのは神です。
人生は私が生きているのではありません。神が私として人生を生きているのです。
人生を歩んでいるのは大自然です。肉体は大自然が生みだし使っているのです。
神の肉体が人生を生きているのです。
大自然が脳を使ってあらゆる思考や感情を起こし、
私という錯覚を使って生きています。
大自然が脳の伝達物質を使って思考や感情や行為を起こして
その記憶である私を使って生きています。
大自然が脳を使って行為しているのです。
それは動物を見ても明らかでしょう。

大自然を神とするなら
ミルダッドが言うように「神が私である」と思われます。

ラーマクリシュナの言うように
私は神のロボットであり、神の演技の結果であり、私は存在していません。

私は結果であり、
神がするように行い、
神が思うように思っているのです。

それなのにロボットである私は、
自分が思考し、自分が行為し、自分には自由意志が有り、
自分が自分の力で自分の人生を歩んでいると錯覚しています。
私は神の仮面です、私は映像です。結果です。私は存在していません。

しかし
世界中の人間の誰しもが自分が自分の自由意志で自分の人生を生きている
と錯覚しています。この人生は自分の人生であり、自分の責任で自分が
自分の人生を切り開いていると確信していて決して疑うことがありません。

人類の集合無意識である記憶は思考も知覚も行為も自分が起こしていると
錯覚していますが
記憶こそ思考も知覚も行為も即ち自分とは起こっていることの結果です。

この現象世界は私も含め万物一切は起こっている事即ち映像でありましょう。
この現象世界は神の映像なのでありましょう。


そして
聖賢の方々は(以下は私には実感はないのですが)
この記憶の私は真の私ではなくて
真の私である神の子のわたしとは
即ち肉体や記憶や霊的諸体ではない霊魂の私とは
この神の映像の私を「思考なく観照している私」である
と教えられております。

それにも拘わらず
未熟で未発達な霊魂の私達は、
肉体に入って「条件付けられている脳」と結合した結果、
脳が生み出している思考や感情や知覚や行為やその記憶、
即ち人格個人の私を私自身だと錯覚してしまっているというわけです。

この個人人格の私という意識を使って生きているのは
大生命である神なのではないか・・と思ったりするのです。

話しは全く無関係にいきなり飛びますが
エルダーブラザー・宇宙人は
この未発達な地球人と異なり
他の進化した星の人類(宇宙人)であります。

その星の集合無意識が浄化され、惑星での単一意識となり、ブラザーの
たましいは
「主体」と繋がる分け御霊の諸体を自由に使用できる段階に至って
いるのでいるのでありましょう。



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