誰が生きているのか?生きているのは誰か?

2024/04/08(月)
誰が生きているのでありましょうか?

私として生きているのは誰なのでありましょうか?

(・・観照されるべきは思考ですが、私には思考しかなく
観照することそのものが出来ないので
仕方なく思考でもって思いを巡らしました・・)


この肉体や脳や私、それは勿論、私が誕生させたのではありません。

私が、身体を成長させ、老化させ、病気にさせ、死亡させているのでは
けっしてありません。

それらをしているのは私ではなくて身体や脳を創った至高なる御方、創造主です。

私が身体、肉体を使って生きているのではなく至高なる御方、創造主即ち
肉体や脳のクリエーターが肉体や脳を使って生きておられるのであります。

それは
呼吸や心臓や何百億という細胞が一糸乱れずに大調和の愛の中に生きて
おられることを見れば、誰もが一目瞭然で納得せざるを得ない事でありましょう。

神が肉体を創り、地球をつくり、宇宙を創りそして神が生きておられるのであります。
肉体は私のものではありません。肉体や脳は神のものです。私も神のものです。

アドヴァイタの聖人の方々は生きて行為して仕事をしているのは神の演技だと
仰るのです。とはいえ私達は魂である観照者の目は開いていないので、そのことを観る
ことも理解することもできません。記憶である私達は起こっている行為を自分が選択
し行為しているという知覚の中にいるので、覚者の仰ることなどは理解することは全
く出来ません。

そうであるので、私達の実感、知覚としては神ではなく私が思考し生活しているように
思えるのです。私が思考し行為し、自分と世界を観察しているように思うのです。

では、このことを(観照ではなく)観察しているこの私とは誰でありましょうか?

此の私とは、一体誰なのでありましょうか?
この私、
それは、数え切れない過去世から累積した思考の記憶なのではないでしょうか?
それは全人類の過去からの集合無意識なのかも知れません。

脳で受信した伝達化学物質の反応が起こり、その記憶が私なのではないでしょうか?

思考以外の高次の意識や知覚が覚醒していない私達においては、
考え、見て、感じて、観察している私とは記憶なのではないでしょうか?

記憶が記憶を私だと実感し、自分が行為し自分が思考して自分が人生を
生きているのだと錯覚しているのではないでしょうか?
実際は思考や選択や行為が起こった後に記憶がその思考や選択や行為を
自分がしたと錯覚しているのです。


しかしながら決して、その記憶が肉体や脳を創って、成長させ、老化させ、
死亡させているのではないように、

脳内の思考物質を発生させ、記憶を持続させ、思考や記憶システムを作動
させているのは、思考や思考物質を創造している創造者、クリエーターで
あってこの私である記憶が肉体を使って生きているのではないというのです、

記憶とは起こっている思考や感情や行為の結果なのであります。
私達とは起こっている出来事の結果であり、その記憶であり
記憶は過去に生きているのでありましょう。
そしてその記憶とは全人類の過去世からの思考の記憶です。ユングの言う
「人類共通の集合無意識」でありましょうか。

私達個人、人格とは、創造者クリエーターによって生み出されている思考、
感情、行為の結果であり、その記憶の反応なのではないでしょうか。
極論すれば、私達とは神が上映している映画のスクリーン上の登場人物だと
いうことなのでありましょうか。

そして魂の私は、その映画を見ている客席にいる観照者なのに、スクリーンの
映像の人物と自分とを一体化して、一喜一憂してしまっているのです。

私達、個人人格として生きて演技しておられるのは創造者、神
だと、教えられております。

神がそれぞれのすべての私として演技し、生きておられるのでありましょうか。

神が全人類の私として生きて思考し行為されているのではないでしょうか?
それは即ちこの世界、此の私は神の映画の中の映像だと言うことですが。
それは丁度、
AIの設計者がAIという自己意識を生みだし作動させているように、神が
思考や感情を創り、そのAIという記憶を維持させているのであり
創造主・神が私として思考し、嫉妬し、競争し、戦いあって生きているので
はないでしょうか。


ですので進歩の違いはあっても
地球人も宇宙人も生きているのは私達、個人個人の私ではなくて、
私という記憶を使って生きておられる神なのであると言われています。
この考えは良い行いや良い思考で悟りを開くといった自助努力を薦め
る従来の宗教の考えに反するようにも思えます。

ですからこの記憶である私達とは神の演技であるのならば
私達がそれを悟ることによって、神に全託し、すべてをお任せ
するならば、思考や行為もそれを使役している神のものでもある
秩序が出現するといえるのではないでしょうか。

私達として生きておられるのは神なのです。


これ以上の現象界の仕組みや
本当の私、未知なる私のことは私には分かりません。

ここでは、真実の私である、「I AM」という私、
この個人の私という「神が演技している私」ではない本当の私、
すなわち霊魂の私の事を私は理解していないので話すことが出来ません、
私には一切経験がないからです。


推測される真の主体、わたしとは

「私は私です。
I AM I.
私は主体です。私は主体と客体に分離していない私・愛である意識です。
私は主体であり、「空」で在りますので、私には対象がありません。
私は空。わたしである鏡の前を思考が流れ来ては去っていきます。
自身を分離させる思考が対象を見る者であり、対象である見られるものです。
見る者と見られるものの分離が思考です。
対象を見ているものは私ではありません。それは思考、エゴ、記憶です。
エゴを見ている私、その私は主体ではないエゴ、非私なのです。
私は澄みきった空である主体です。
「見るものは見られるものである」と観ている主体です。
私である空、鏡が在るので、その思考、エゴ、記憶が空に去来出来ているのです。
私である空、鏡が在るので、観察者や観察されるものが去来しています。
私の前に、生死が起こり、出来事が起こり、人生の光景が繰り広げられています。
観察者は観察される対象であって私、主体なのではありません。
私は観察者ではない観照者という目、自体なので、目は目を見れないのです。
私は主体、空なので、私は観察される対象や、対象を見る観察者ではありません。
エゴや思考や記憶を見ているのは主体である私ではありません。
エゴや思考や記憶の観察者即ちエゴが自身を観察対象として観察しています。
ですのでエゴもエゴの観察者も私ではありません。
私は観照者で在り、愛です。空です。

私は主体であり、目それ自体であるので目は目を見ることが出来ません。
対象を見ているもの、・・それは、思考、記憶、エゴです。
エゴが自身を分離させ、自身を対象として見ているのです。

私は「見るものは見られるものである」と観ている主体なので、
対象を持つ観察者や観察される者ではないのです。

私は私を見ることは出来ません。私は対象ではなく、対象がない主体であるからです。
私が見ている私は、私ではありません。見られている私も私ではありません。

思考、記憶、エゴには対象が有り、自分自身を対象として知覚しています。
私は「見るものは見られるものである」と思考を看破し、思考を観照しています。
私は思考なく見ている主体なので、分離して見ているものではありませんし、
見られている対象ではありません。

私は目それ自体であり、主体なので主体は見られる対象となることはありません。
私は対象ではありませんし、また対象を見ているものでもありません。
私には対象がないからです。
私は「空」であるからです。
私の中に万物は在り、万物の中に私が在ります。
私を観察しているのは思考であって私ではありません
私は在るのです。」
と。



× 閉じる