脳を礼拝する、そして、私を礼拝する

2024/04/05(金)


私は毎朝、鏡に映る身体と脳を礼拝しています。

身体と脳は至高の実在が産みだし、生きておられるからです。

そして

私は毎朝、私を礼拝しています。
私は私が生み出したのではありませんから。

呼吸し、生活し、お金を得て、色々と悩み、考えている私
を使って至高の実在=神が生きておられます。

幸福になろう、悟りを開こう、安定して喜びに満たされていたい、
生き残りたいと、必死になって努力する私を使って生きているのは
至高の実在でありましょう。そんな私を神がいきておられるのです。

自分が思考し、自分が欲望し、自分が行為していると錯覚している
私を使って演技し生きているのは神なのでありましょう。

私は起こっている思考と感情と行為と欲望の結果即ち記憶です。

私が思考し、私が行為しているのではなくて、思考と行為と
欲望や恐怖は起こっているのです。私はその記憶です。
私は起こっている結果なのです。

私が生きているのではありません、神が生きておられるのです。
呼吸し、心臓を動かし、行為しておられるのは神です。

私を生み出し、私を生かしておられるのは私ではありません。

至高の実在が私として演じておられるのではないでしょうか。

それなのに、この神の映像の私は、自分が思考し、自分が欲望をし、
自分の肉体で、自分が自分の意志で、自分の力で、自分が自分の
人生を生きて、自分が努力して神と一体になると思っています。

・・・そもそも一体になる私などいないというのに。

思考と行為と私とは起こっている結果、映像であるのに・・。
その自己意識を持っている私を通じて、思考し、行為し、生活し
人生を歩んでいるのはその記憶の私ではなくて、記憶の私を演じて
いる神なのです。この世界は神の舞台なのです、映像なのです。

しかし
この私である観察している私を観照している未知なる私がいます。
この未知なる観照者とは思考し、行為し、行動する肉体や記憶を観照している魂なの
ではないでしょうか?

では、いったい、
どの私が、どの私を礼拝しているのでしょうか?
礼拝している私とは誰か?
礼拝されている私とは何か?


私とは複層であり、多重であります。

私を礼拝している私、
礼拝されている私、
その私をみているのは誰なのでしょうか?

自己を低次の自己と高次の自己に分割し、識別しているのは
高次の自己ではありません。
未知なる高次の自己であるならば、そこには自他の分離が無いはずだからです。

私は私、自己を知りません、が、それでも私は私を礼拝しています。

既知なる私も
未知なる私も含め
私は私を礼拝しています。

私は「I AM THAT I AM 」を礼拝しています。

私は
ハートの内奥にある私、生命である私I AMを礼拝しています。

私は
内部であり、外部であり
私であり、あなたであり、万物であり
生きとし生けるものを生かしている大生命であり
すべてのすべてであるハートにいる私を、

「I AM THAT I AM 」を礼拝しています。
「成る私、や、する私ではなく既に在る私」を信じそして礼拝しています。




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