恐怖を見ているものは恐怖である・・クリシュナムルティー

2024/04/01(月)
恐怖を見ているものは恐怖である・・クリシュナムルティー

このクリシュナムルティーの言葉は何を言っているのか全く分からないと
思われます。実はわたしもそうなのです。

かく言う私もこの言葉を知ってから、かれこれ60年近く経ちましたが
一向に分かりません。こうでもない、ああでもないと思索を重ねて80歳
にもうじきなります。

クリシュナムルティーは書籍の中で
「恐怖を見て恐怖を観察している者は、恐怖であって恐怖とは別の私が見たり
観察しているのではない。
私が恐怖を見ているのではなく、恐怖を見ている私が恐怖なのだ。
その恐怖を対象として知覚認識している私とは実際には恐怖自身である。」
と言っています。

これは自分や相手の中に自我を見ているものは自我であると言うこと
でもありましょう。思考を見ているのものは思考であることでありましょう。

これは自分を他者と分離して見ている私を自分だと知覚しているものとは
自我であるこということでありましょう。

そしてラーマクリシュナの言うように自我とは神の演技であるという
ことなのでありましょうか!

そしてさらに、
「『観察者は観察されるものである』ということを知覚認識しているのは
観察者という自他に分離している私・自己ではなくて観照者即ち「愛」
なのである。」
・・・と言うようなことを語っています。


おそらく、クリシュナムルティーなどアドヴァイタの言葉や言い回し
に慣れていない方には、何を言っているのか全く理解出来ないと思います。
かなり自己観察・・自分のことを第三者の視点から観察し続けている・・
地道な作業が必要です。

彼がどの次元から話しているのかが私達の次元では全く理解出来ないからです。

「恐怖を見ているものは恐怖である、そして、そのことをハッキリと理解
しているとき、そこに愛が顕現している」
・・というようなことをクリシュナムルティーは仰っておられます。

「思考が思考を見ているのだ」、そして「その思考が思考をみている」と
いうことを、観ているものは思考ではない「気づき」である。
・・といっておられるのでありましょうか。
ここでの「観て」いるというのは「見て」いるもの、即ち記憶の反応ではない
ということでありましょう。

ここは物凄く複雑ですので、日常生活での自己観察(自己を客観的に見る
作業)をしていることが前提になります。


このクリシュナムルティーの言葉は、言外に観察者のことではなくて
観察者を観ている観照者について話しているように思えます。

要するに「観察者は観察されるものであるということ」を観ているのは、
観察者という思考ではなくて、観照者即ち自他の分離が無い真の私の
霊魂なのであるということを言っているのでありましょうか。
私・久保栄治は未だに思考の停止の経験がないので、このことを語る
資格は勿論ありません。あくまで想像で話しています。

私が対象を「私とは別に存在している」とそう思っている私。
自分を対象として観察している私。
世界や宇宙を対象として自分の外部の対象として観察している私。
思考や感情を対象として観察している私。
この肉体や頭脳は私のもので、私が動かしているとそう思っている私
私が自分が行為していると、そう思っている私。
即ち私は個人であり肉体であり霊的諸体であり、神と分離している私
自己である、とそう思っている私。

その私とは「神の演技の記憶⇒思考」であり、記憶の反応であるということ。
その自分を見て、世界を対象として知覚している私観察者とは思考に過ぎない。

その私とは、思考即ち神聖なるマーヤ「私という観念」に過ぎないということ。
その私、即ちこの人格の私とは、思考の記憶に過ぎないということ。
自分自身を対象として、又他者を対象として見ているのは思考だと
いうのでありましょうか。思考が見る者と見られるものに自らを分割して
いるのでありましょう。

即ち
世界を対象として知覚認識して、自分の中の嫉妬や怒りや不安や
恐怖を対象と見ているのは「霊魂の私」ではなく記憶の反応である、
ということなのでありましょうか。

・・これらの全く常識では思いもつかないことをクリシュナムルティーは
問いかけています。

葛藤を見ているもの、葛藤と自己を分離して見ているものとは、その葛藤
であり、恐怖が恐怖である自分自身を対象として見て観察しているのに
恐怖は、恐怖ではない私という自己が恐怖を見ているのだと錯覚している
にすぎないということでしょう。
即ち、それは実際には、思考が思考をみているのだ、ということでありましょう。

・・何が何だか頭が混乱してわけが分からないほど複雑なのですが・・・

分離して自他を見ている私、敵や障害者や殺人者を私ではないと見ている私。
自分と相手、自分と他者、世界や宇宙を分離して見ている私とは記憶ですと、
自分自身を相手として、世界として、自分自身を対象として見ているのは
「私という観念」の記憶なのですと。

記憶が自分ではないと思う相手や私、その相手や私とは自分の姿なのですと。
即ち私が見ている他者や世界や宇宙の姿とは見ている自分自身の姿なのです。
・・と言っている
のでありましょうか。
それが記憶・思考だと言っているのでありましょう。
記憶・思考が見る者と見られるものを分離して見ているのですといっているので
ありましょう。

勿論、この際のその自分自身とは黒住宗忠師のいう神の子の私ではない
「我の心」のことでありましょうが。

・以上はクリシュナムルティーや黒住宗忠師のこれは非常に高度な魂の
観点からの言明への私の解釈です。

実際問題として
私達が経験している不安や恐怖や苦悩や葛藤は、それを知覚認識している私、
それを見ている観察者がいるわけです。その観察者という私がその葛藤とは
別にいて、その私が葛藤を見ている・・と誰もが疑わないのです。
クリシュナムルティーはその不安や恐怖や苦悩や葛藤を見て観察し体験して
いる私とはその不安や恐怖や苦悩や葛藤である思考ですと・・・。
その不安や恐怖や苦悩や葛藤とは別の観察者の私がいて、その私が観察して
いるのではなく、その不安や恐怖や苦悩や葛藤自身が自分自身を分離して
自分を対象として観察しているのです・・といっているのでありましょう。

そして、その「見るものは見られるものである」「観察者は観察される者
である」ということを看破し観ている私とは
観察者という私・自我の見地ではない、自他に分離していない観照者の
「気づきの目」なのですと。
即ちそれは愛であるということを仰っているのであろうかと思われます。

そしてその「愛」が顕現するためには、
即ち自己変革の方法とは・・
それは
私達が自分自身である私を愛し、自分自身を自分自身に捧げ愛すること。
一切万物に愛を注ぐこと。
すべての人に愛を注ぐこと。敵にも味方にも、あらゆる人に愛を注ぐこと。
思考と感情と記憶に愛を注ぐこと。
肉体にも脳にも霊的諸体にも愛を注ぐこと。
即ち、愛する主体が愛される対象にすべてを捧げ愛するとき・・。
私と愛される私がと一つになり(見る者が見られるものとひとつになり)
そのときキリストの言う「愛せよさらば愛が与えられん」と愛が与えられて
愛が秩序を齎すのだと思います。
(ホ・オポノポノでいう記憶のクリーニングが齎されるということ)


「見るものは見られるものである」ということを知覚しているのは思考
ではなくて
思考を超えた「気づき」即ち観照者という魂の目なのでありましょう。

肉体や脳や高次の霊的諸体を使って私という演技をしている源泉・根源・
至高の実在からの「目」が、その「見るものは見られるものである」と
観ているのでありましょうか。

ですのでクリシュナムルティーのこの「見るものは見られるものである」とは
神道の黒住宗忠師のいう「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を移してや見ん」と
全く同じであり、両者とも国や宗教や時代を超えた、同一の真理を
思考の記憶ではない、霊魂の目が話しておられるのでありましょう。

この複雑な私達人間の構造をヒューレン博士は図式を示して詳しく説明
しています。
(この構造は地球人だけではなくて宇宙人も同じです)
A:至高の実在の私(真我)
B:霊魂たましいの私(観照者)
C:顕在意識の私(記憶を私だと錯覚してしまっているが「意識自体」の私)
D:潜在意識の私(神智学では原因体・コーザル体・高次霊的諸体)
E:潜在意識に棲み着いている記憶(宇宙的規模)の私(観察者・見る者のこと)
F:肉体・低次霊的諸体・頭脳

実際はもっと非常に複雑なのでしょうが私には分かりません。









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