■神道の黒住宗忠は人の心は鏡なりと言っていますが、それは、どういう意味でしょうかね?
⇒私が思うに、その鏡、それは内部と外部を、見ている私と、見られている対象を写し出している
鏡のことであり、鏡とはスクリーンである。とアドヴァイタの賢者は言っております。
私達が人生で経験している内部と外部の全てを写し出している真っ白なスクリーンのことを
鏡と言っているのだと思われます。
そしてまた、その鏡、スクリーンのことを魂たましいといっています。
この鏡または、スクリーンに映っているのが自分の姿であり、またその自分が知覚認識している
世界でもあり、自分のこの鏡とは世界を写し出しているスクリーンだということでしょうか。
この自分自身とは、自我や世界を写しだしている鏡、スクリーンに写し出されているものだと
いうのでしょう。
■では、この鏡に写し出されているのは、私を詐称する自我による思考や感情は当然のこと、
鏡に映っている家や町や山や川や人々や対象世界のことも指しているのでしょうか?
⇒ここで黒住宗忠師のいう鏡に映っている「自分の姿」と言っているのは、自分を含めた世界、
宇宙のことであり、鏡に映っている対象世界、全てを指し示しているように思えます。
即ち、黒住宗忠師のいう鏡とは、現代風に言えば空間、若しくは映画のスクリーン、又は
PCのデイィスプレーのことだと思います。そして私や世界はそのPC画面の映像ですと。
黒住宗忠は空間自体が私達だと言っているわけです。私達とは空であると言っているのでしょう。
■え!それでは空間が鏡と言うことですかね
⇒空間というと、私達は肉体の頭脳の条件付けられている思考でもって、その空間というものを三次元
的な考えで捉えるのですが、黒住宗忠師のいう鏡という意味での空間の知覚は現在の人類の頭脳では
実際には把握出来ない物質空間を含む空間のことで、多くの次元を含んでいる「空」なのだと思い
ます。
そのことを仏教では、そのことを言葉でもっては表現できないので「無」とか「空」とかの言葉を
使用して指し示しています。
おそらく地球人の現段階の条件付けられている頭脳ではその空間を理解出来ないので、むしろ「無限」
という言葉の方が合っているのかも知れません。
■それでは空又は空間が私達の実態と言うことですね
⇒ここで私は悟っていないし、一瞥体験もないので、その空を理解していませんが、私達はその空間で
あって、その空間の中に対象世界・・それは色んな次元世界を含んでいます・・があるということ
でありましょうか。クリシュナムルティーやヒューレン博士などがいう「世界は私の中に有る」とい
う事でしょうか・・この知覚認識は神々や宇宙人さえ羨むことでしょうね。
私達の脳が知覚している内部の葛藤や、自我のこと、世界の腐敗や堕落、戦争は実は私の中にあり、
黒住宗忠は、その私の中の私自身の姿を直視しなさい!と言っておられるのだと思います。
「世界は私の中にある」と言っておられるのです。
そして、ただただ見ることでその鏡を綺麗にクリーニングしなさいといっているのだと思われます。
■わたしには貴方が何を言っているのかさっぱり分からないのですが、貴方は自分の思考や感情や
自我だけではなくて、私が見ている世界や宇宙も自分の中にあると言っているのですか?
⇒それは現段階では私が経験している知覚ではないので、私自身もよく分からないのです。が、
高次の知覚・・それは思考や記憶による知覚ではなくて、分離分割を解消した「私はあなた」
という知覚、即ち頭脳やアストラル体やメンタル体の知覚ではなくて霊魂の知覚のことですが、
自分が見ている対象とは、思考や、感情や自我も含め私の妻や夫や上司や隣人やテロリストも
そして社会や世界も起こっている事とは自分の対象であり、実際は全てはこのスクリーンに映し出
されているのだと言うことでありましょう。
そして、さらに、この自分自身も含めて起こっている事とは神の演技だとラーマクリシュナは
言うのです。この内部のスクリーンに上映されている映像は神聖なるマーヤの映像だというのです。
そして、この神聖なるマーヤである「私という観念」が消失したとき、その鏡スクリーン
には至高なる実在の秩序が顕れるというのです。
思考や分離している私に拠らない知覚によって本来の現象世界が認識されるというのです。
今までの思考や感情や行為とは「私という観念」からの思考や行為や感情でしたが、
この鏡というスクリーンから「私という観念」がなくなれば、そこには、本来元々在った
「至高なる実在」が姿を顕し、その秩序が思考や感情や行為となって顕現すると教えられ
ております。
■そうすると、この鏡に映っている対象世界にも秩序が現われるということでしょうか?
⇒ここでアドヴァイタの方々はこの鏡、空間に写し出されている内部と外部世界は、神の投影
即ち神聖なるマーヤであり、「私という観念」の投影だと仰っています。
ですので、このスクリーンに写し出されている内部や外部は既に決定されている記憶、過去
だと言うのです。
この神のマーヤが取り払われたら思考や自我によらない正しい行為と出来事が起こるというのです。
ですから、この自我というマーヤから解放されるためには
このアドヴァイタの方々はその過去である記憶を「ただただあるがままに見なさい」と教えられて
おります。即ち対象を見ている私は、「見るものは見られるものである」ということを理解しな
ければならないと、教えられているのです。
ですから私達はこの自分や対象世界、又は対象という相手を自分ではないと錯覚している「我の心」
を観照している魂である観照者なのだと知りなさいといっています。
私達が他人であり敵だと知覚している相手とは敵ではなくて私自身の姿だと言うのです。
■複雑すぎて何を貴方が言っているのかよく分かりません。全くちんぷんかんぷんです。
⇒それは、私も良く理解していないからです。それは丁度、盲人が道案内をしている様なものでしょう
か。
しかし、有り難いことに言葉には理解出来ないことを言葉で語って下さっている覚者の言葉が残って
いるので、わたしは誤解しながら手探り状態で進んでいます。
■あなたはこのホームページを通じて何を齎そうとしているのですか?
⇒それは、黒住宗忠師のいう鏡が綺麗になれば、そこには元々在った本来の姿がその鏡に映し出され
ると言うことです。
クリシュナムルティーによりますと、それは秩序が顕現する言うことですが・・、
此処で誤解してほしくないのは、この秩序が顕現するということを、私達は聞いて、それは自我の
願望が成就されて、自我が満足することだ、願望が成就することだ、と間違ってしまうことです。
願望が成就されることとは、それは神を自分の奴隷にすることであって、
自分が自我に支配されてしまっていることです。願望成就とは秩序が齎されると言うことでは全くあ
りません。秩序が齎されることとは願望がなくなり、思考が消え去ることことなのですから。
そして、起こること全てに感謝してすべてを受け容れることですから。
秩序が齎されるとは、その願望を抱いている私が消失して、そこに本来の思考や感情や行為が顕
れるということなのです。
またその時、
その本来の秩序とは内面や外面、この物質界だけではなくて、幽界や霊界や、他の惑星にも影響が
及んで、その秩序が顕れるというのです。
そして最も大切なことは、今までは自我がこの知覚と認識、即ち自我が頭脳を使っていたのですが
、この鏡が綺麗になった暁には頭脳の条件付けが解除され、思うこと行うこと、知覚することは
全てを、自我が支配していたのが、これからは至高の実在によって思うこと行うこと、知覚するこ
とがなされて「愛」が顕現すると言うのです。それがこの秩序が顕れるということです。
なので、この至高の実在による秩序が齎されるということは
物質界や他の次元や宇宙に於いて自我のない至高の愛による高次の思考や高次の感情(ワンネス)
そして高次の行為が行われるということでもありましょう。
クリシュナムルティーは、それをもし自我からの解放が起これば秩序が顕現し
私という観念(自我)による思考や感情や行為や知覚や認識ではない
高次の実在による秩序からの自我のない思考や行為や知覚や認識がその鏡に齎されると言っています。
自我の私が思ったり、行ったりするのではなくて、至高の実在から今度は思ったり、行ったり
することが起こるわけです。
その為に必要なのは絶えざる自己観察と自己想起であり、全て一歳万物にたいしてに
絶えず愛と感謝を捧げることでありましょうか。