神の人生劇場

2024/03/24(日)
フト思ったこと

「この私達の人生とは、私達の人生なのだろうか??
それとも、
神が演じている「神の人生」なのではなかろうかと。」

・・自分の意志に関係なく規則正しく鼓動する心臓を見てそう思ったり
するのです。

私達は、誰もが、自分が自分の人生を生きているとそう思っているのだが・・
それは一寸違うとおもうのです。
(・・・え!久保は頭が可笑しくなった!と思わないで下さい)

何故そう思うのかと言えば
それは肉体も、脳も、呼吸も、消化器も循環器も生殖器も実際には、
神が創り、そして維持して、動かしているのは至高なる実在であると思うからなのです。
脳もそうなのです!
私達の意識も肉体と同じだと思うのです。

実際には肉体は私の肉体ではなくて、神の肉体なのだといえると思います。。

この地球上の80億人の全ての人指紋が異なることや
一人一人の個性や才能が違う事を見ると、この個人とは、とてもこの個人の
私達が創ったとは思えられないのです。

しかし、実際の私達にはそんな風には考えることは全くないでしょうし、
日常生活では勿論、「自分が、自分の努力で、自分の人生を生きている」
と思っております。

日常生活では、「私達が生きているのではなくて私達は生かされているのだ」
などという思考が、入ってくる隙間はないことでありましょう。
誰もが、「この私達の人生を生きているのは私ではなくて、神である」とは思わないでしょう。

しかし「脳を創り、意識を生み出したのは誰なのか」と考えると
それは、この今現在のこの私ではない・・という気持ちになります。

悩み苦しみ、成功し失敗し、勝って負けて、嫉妬し不安と恐怖に怯え、
目標を持って人生を生きているこの私を、創って生かしておられるのは、
実は個人の私ではなくて、私達を創った根源なのだと思ったりするのです

しかしながら、この私が自分の意志で自分の人生を生きている、という実感
は、観照者という魂の目が開かない限りは、その実感が覆ることはない
ことだろう・・と覚者は教えておられます。

私は到底実感できませんが、覚者はかくの如くに仰います。

「神が自我としての私として、世界中の全ての人を演じているのだ」と。

この肉体、そして、アストラル体やメンタル体を創り、使役し、
脳を創り、脳を通じて思考や感情を創り、
その記憶である私という、思考体感情体として、霊的精妙体として、
即ち自我として人生を生きているのは、神であるのだと仰るのです。

悟っていない私達から見ても
よくよく脳が行っている事を見てみれば、思考や感情も、知覚も脳の
お陰だと思うのです。脳が正しく機能しているから、見たり聞いたり話したり
出来ているわけですし、
思考や、感情や、行為を、この私が、それらを生み出しているのではない、
と思わざるをえないのであります。

そこでの結論としては
「この思考、この感情、この知覚、この頭脳、霊的精妙体、そしてこの私も、
私が生み出したのではない。
私が思考し、私が行為して、私が生きているのではない。
その逆に
私達こそが、起こっている事、即ち思考や感情や行為の結果,
即ち記憶なのではないか。」というようになってきます。

しかし常識的には、思考や感情は自分が起こしていると実感されることで
ありましょうけど、それは脳が正常に機能している結果なのであること
だからなのです。
ですから、
よくよく見れば、この私・自分というのは記憶のことなのではないか?
と思うのです。
私とは、自分の潜在意識にあるという記憶のことなのではないかと。
この記憶こそが、この私自我のことであり、或る状況下でその記憶.
自我と云うものが自動的に起こっている・・と思うのです


ですので、自分から逃れようとして、自分の欲望と戦い、自分を判断して、
自分から逃避したり、自分を何とか良くしようと努力している私とは、
その記憶であることでありましょうか。

ここで覚者達の教えによれば
だからこそ
私達は、その自分を何とか良くしたい、と努力している私自我を、
暖かくそのまま受け容れようではないか、ということになります。

悩み苦しみ、恐れ、不安な私を、そのまま受け容れようとはせずに、
自己改善に励んでいる私自我をも、そのまま受け容れようではないかと。

それもこれも自我とは即ち神の演技であるとラーマクリシュナは言います。

自我、記憶とは神が、神の劇場の舞台で演じておられるのであり、
その演技、仮面が私達、個人なのであるとラーマクリシュナは言うのです。

恐れ、憎み、思考、行為とは、私とは関係無しにやってきます。
なぜなら、神が演じておられるのがこの私であるから、それ対しては、
私達は、関与できないのだと仰います。

私達は、嫉妬し、ずる賢こく、怒り狂い、暴力的な自我に、
何ら関与することが出来ないのであると言うのです。
自我に関与しようとしている私こそ、神の演じておられる
自我であるからだと。

自我すなわちこの私とは何でありましょうか?
それは、この記憶、神が起こしている思考や、感情や、
行為の記憶なのではないでしょうか?真の私、魂の私ではない私であることで
ありましょう。

そして、私には分かりませんが、
本当の私達とは、この記憶という自我と一体化して
しまっている霊魂なのだと言われているのです。

私達は自我ではなくて霊魂だと教えられているのに、それなのに、
私達は、肉体とは自分の肉体であり、思考や、感情や、行為も、
自分がしていると思っている私自我と一体化してしまっているのだ
と教えられております。

しかしながら聖者によると、事実とは、
神が、思考や感情や行為や自我を起こしていると。
私達とは、
その起こっている思考や感情や行為を自分がしていると思っている記憶、
即ちこの自我と、一体化してしまっている霊魂なのであると言うのです。

私達は、この現象界という記憶の世界で、
自分が自分の力で、自分の人生を歩んでいる、と
錯覚している自我と、一体化しているのに過ぎないのでありましょうか。

私達は、本当は、
この錯覚のマトリックスの世界を見ている観照者なのだということ
なのでしょうか。

ただし、この知覚は、この私のように、魂の目が開かない者にとっては、
単なる概念に過ぎないことでありましょう。

この神のマトリックスの世界では、地球人類の全ての人は「人生は自分
の人生であり、自分が思考して、自分が行為して生きているのだ」と、
誰もがそのように実感して疑いませんが、
私達の人生とは私達の人生ではなくて、
神が演じておられる神の人生なのであるのでしょうか。

失敗も成功も、神が演じておられるのでしょうか。
・・それは既に決まっているように。

カルマに従ったプログラム通りに・・。

自分が生きていると錯覚し、
自分の人生だと思い込んでいるのは、記憶なのでありましょうか。

そして私達は、この記憶を、この私を即ち自我を、
自分だと錯覚しているのでありましょうか。

そして、この神の人生劇場(神が上映する映画)を、
観劇しているのが、神の子である私達霊魂という、
観照者なのでありましょうか。

神の分け御霊である、私達神の子が、
神が演じておられている神の劇場の観客なのでありましょうか。

この人生とは私の人生ではなく、
神が演じておられる神の人生であり
私達は、その演技を見ている霊魂という観照者なのである。

「汝はそれなり」「あなたは世界である」
・・・という教えを思ったりする今日この頃であります。





× 閉じる