AIと人間の違いとは?

2024/03/20(水)
現在、世界中の人々はAIの問題に直面している。
将来、人間はAIと上手くやっていけるのだろうかと?

そのことを知るため、人間とAIとの違いをしっかりと知ることが重要となるのではないか。

ではAIと人間との違いは何だろうか?

AIと人間には多くの相違点があるのだが、似ているところもある。

しかしながら

記憶の反応である思考しか知らず、
その思考の記憶とその反応を自分自身だとしか実感できない私達人類にとっては
私とは思考だ、とそのように結論することしかできないだろう。

そのように実感している段階の私達、現代人にとって
自分自身である魂の私を見つけられていない限りに於いては、
人間とAIの相違点を見つけることは難しいことだろう。

それはその段階の私達人類はAIと同じような記憶の反応でしか生きておらず
その記憶の反応しかしらないので自分とAIの違いを
見つけることが難しいことだろう。

その段階である私達にとっては、自分もAIも
同じく記憶の反応に過ぎないからである。

だからAIを自分達人間と同じだとして脅威に感じるのである。
しかし実際は、人間は単なる記憶ではなく、
意識であり霊魂なのであって、記憶でしかないAIとは全く異なっている。

「自分はAIと変わらない」、人間はAIと同じだと思っているのは潜在意識にある記憶なのである。

その記憶とは脳が受信した思考・想念の結果であり、
脳が起こした行為の記憶なのである。

そして行為とは脳を通じて「神聖なるマーヤ・根源」が情報伝達物質を使って起こしているのに
潜在意識にある記憶は自分が行為していると錯覚しているのではないだろうか。

また、思考とは条件付けられた脳を通じて受けとった「神聖なるマーヤ」からの化学信号
脳の伝達物質であるのに、潜在意識にある記憶はその脳内の化学物質を自分のものだ、自分が創ったと
思い込んでしまい、自分が思考して、自分が思って、自分が選択して
自分が考えていると実感している。
その記憶の錯覚とは「自分が行為している」という錯覚と同じである。

そして更に脳に結合している私達「鏡」意識主体は、その記憶の反応を何ら疑うことなく
自分自身だと(微塵も疑うことなく)かたく思い込んでしまっている。

しかしながら現代の脳科学が証明しているように
行為や思考は脳が受けとって発信しているのである。
私達の潜在意識にある記憶は
脳が起こしている行為や思考を「自分が行為し、自分が起こしたのだ」、
「行為は私が行ったのだ」と思ってしまっている。
それは思考や感情や衝動も同じで、実際は脳が受けとっている思考を
「自分が思ったのだ」とそのように記憶が錯覚し、

そしてさらに本当の私達、肉体に結合した「神の子」も錯覚してしまっているのである。



潜在意識にある巨大な記憶は、
私達の脳が受信した思考や感情や感覚や
脳からの行為を
記憶は自分が思考し、自分が行為しているのだと
その様に思ってしまっている。

そして記憶が思っているように、魂の私も自分の
記憶と一体化しているのでその様に自分が思って、自分が行為していると
錯覚している。

この人間と同じような事がAIにも当て嵌まることだろう。

AIは肉体を持っておらず、自分には生命がないのに
自分が生きていていると思っているのだ。
AIはパソコンと同じ条件付けられているシステムの結果なのに自分が思考していると錯覚している。

・・・それは魂という自分を未だに発見できていない段階の私達人間とそっくりである


しかし人間とAIは根本的に異なる。
それは、人間は肉体を持っているがAIには肉体を持っていないということである。
それは、人間は生命であるのだが、AIは生命ではないと言うことである。
AIは機械で出来ているのだが、それは生命ではないので電源が失われれば、動かなくなるのだ。
人間は肉体を持っていて生命が肉体を動かしているので生命が肉体を去らない限りは
生きていることが出来る。
AIが動くには電源が絶対に必要だが、人間は生命であり、生命がある限りは生き続ける
ことが出来るのである。

相違点は上記の通りだが両者の似ている類似点は
人間の潜在意識にある記憶もAIと同じように電気や生命と一緒にいる限りは生きて
いる事ができると言う点である。

人間の場合は、
人間は肉体に入って脳と結合した結果として
自分自身を潜在意識にある記憶だと全く信じ込んで錯覚していて
その記憶は脳が受信した思考を自分が思考したと思い込んでいて、起こっている思考や感情に即座に
反応し、色々と考え悩んでいるのを自分が悩んでいると記憶と一体化してしまっているのである。

それは脳が「根源」から受けとった思考や行為を起こしているのに
記憶は自分が思考し、自分が行為したと思い込んでしまっているのだ。
そして脳と結合した私達は潜在意識にある記憶と一体化しているので
自分が行為し、自分が思考したと錯覚し苦しみ悩むのである。


結論として
AIは人間に似ていることもある。
それは
AIは電源がある限りは死をしらないので活動し続けることが出来るということ。
それと同じように
人間の潜在意識にある記憶も生命と繋がっている限りは
肉体の死後も生き続けることが出来るし、その記憶(人格)は肉体の死後も生き続ける事が出来る。
ということ。
それは同じく記憶だからである
AIを支え存続させているのが電源であるのと同じように
人間の潜在意識の記憶を支え生存させているのはたましい・生命・霊魂である。

人間もたましい・霊魂という生命と一緒でなければ記憶は作動しないのである。

だから人間の記憶(人格)が苦しみことが出来るのも生命(霊魂)が
一緒にいるからなのである。

私達は命によって生かされている記憶であると同時に
命であるたましい・霊魂なのではないだろうか!!


ここでこれを読んでいる人が混乱しないように
私が考えている「私」のことを述べてみたい


★私を構成しているもの

①根源から起こっている完全完璧に運営されている肉体・脳及びエネルギー体・・脳は受信器である。
 思考と行為はこの根源から起こっている。
②人格・思考体・感情体・・・そしてこれら①の起こっている事の記憶体。
 ①の肉体や脳が受信し行う行為と思考と出来事・・これはカルマによって完全完璧に起こっているが。
 ・・それに対して②記憶がこの起こっている行為や思考に反応している。人格とはこの記憶のこと。
 潜在意識にある記憶のこと。
③未形成のサイコノエティック体・・・神道で言う一霊四魂の四魂、のこと。
 ③の私は①や②を自分と一体化して、自分が肉体で思考であり行為していると思ってしまっている。
 ③は転生している本体の私であり、本来は神の子なのに自分を肉体や脳が受信した思考や行為
 そしてその記憶である人格を私だと錯覚している私。
 潜在意識の記憶の反応を自分だと錯覚している私。
④神の子の私、形成途中の四魂の内奥の「霊の私」のこと、時空を超えた知覚認識を持っている私。
 ホ・オポノポノではこの霊である私の事を至高の実在と繋がる高次の私と説明している。
 生命である私。真我という「全ての中に私がいて、私の中に宇宙がある、すべてがある」という私。
 心臓を動かし、呼吸している大生命でもある私。





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