私とは?

2024/03/11(月)
who am I?

私とは誰か?

今日は私とは?・・ということを自分なりに探ってみました。

肉体とは私でしょうか?
この肉体は私のものなのでしょうか?
この完全完璧、何億の細胞が一糸乱れず生きておられる驚嘆すべき肉体は
勿論、至高の叡智によって創られ維持されているのであって私が創ったの
でもないし、私自身ではないし、私のものでもありません。
肉体は神のものであり大生命のものであり、大生命・神が生かしておられます。


ではこの脳は私でありましょうか?
脳は大宇宙や素粒子と同じく大生命・大叡智の最高傑作です。
脳を私が創ったのではなくて、その反対にこの「私記憶」は脳の結果なのです。
脳は肉体と同じく宇宙を創造した大叡智・大生命の最高傑作
であり、勿論私が脳を創ったのでもなく、脳は私のものでもありません。
脳を創った大叡智が脳を創造し、管理し、脳を維持して、使用して
おられます。脳は大叡智のものであると思います。

ではその脳から生じている記憶や行為やその記憶が私でしょうか?
その脳から生じ脳が受けとった思考や感情、行為そしてその記憶は
勿論私ではありません。それは記憶であり、その記憶が私を詐称し
ています。
欲望や衝動や渇望や期待や行為は私が生み出したのではなくて
それら欲望や行為とは脳が受けとった記憶の反応です。
その記憶の反応を私達は自分自身だと誤ってしまったのです。


思考や知覚、理性や知性、記憶、感性や才能や身体障害や精神障害
というような個人の特性、即ち個人とは私が創ったのでしょうか?

勿論才能も個人個人の指紋と同じように、個人の特性もその個人の
私が創ったのではなく、その特別な才能や、同じく特別な非才能も
大生命が創ったのです。


では肉体の死後も存続する記憶とは私なのでありましょうか?
勿論、記憶は大生命のシステムとして存在していて、それは丁度
個々のパソコンがネットで繋がっているように、記憶はサーバー
という潜在意識にあり、全人類の潜在意識は同一のサーバーに
繋がっているのでありましょう。それらのシステムは私が創ったのでも
私のものでもありません。
この記憶が観察者と言われていて、自分自身を対象として分離し
て知覚し「私とは自己を観察している観察者だ」と言っています。が・・
クリシュナムルティーは観察者は観察されるものだと教えておられます。
この自己を対象として、また世界を対象として観察している観察者
こそが自我即ち私ではないエゴであり、そのエゴとは私ではない無明
・無知なのではないでしょうか?



ではさらに肉体ではない超五感や霊体とは私でありましょうか?
私には超五感や霊体は創れないし、維持できません、またそれらの
結果である人格も私が創ったのではありません。
なぜなら人格という記憶は脳の思考の記憶であるから私が人格を
生み出したのでもなく維持しているのでもないからです。


ではではさらにお尋ねしますがそれでは一体私とは何で
ありましょうか?

肉体は私ではないし、脳でもないし、記憶でもないし、
思考や感情やその特性である才能や意志や行為でもなく、
人格でもなく、霊体でもなく、観察者でもなく、神が使役
しているエゴでもないとしたら・・
私とは一体何ものなのでありましょうか?


繰り返しますが
私は肉体でもなく、脳でもなく、脳から誕生した記憶という人格で
もなく、私が誤って自分自身だと錯覚している自我、即ち神の演技
で或るエゴでもないとしたら・・
私とは誰でしょうか?

この私ではないものを私だと錯覚している私が私なのです!!

ではわたしではないものを私だと錯覚している私とは一体誰でしょうか?

私はそれは「意識」だと思います。受動思考に穢されていても意識は意識
であり、意識は受動思考ではなくて高次思考なのだと思います。

私とは受動思考に覆われ、傷つき汚れてしまっていても内奥では至高の実在と
繋がっている「高次思考」「サイコノエティック体」「一霊四魂」
「未熟な意識」「神の赤児」即ち自我やそれらの脳が生み出した記
憶と一体化し混濁してしまっている「意識」であるのではないでし
ょうか。
・・・と私は信じているのです。

この肉体に入って脳と結合し、記憶を自分だと見誤り、さらに
思考や感情や行為というこの神の機械・ロボット・映像である
自我と全く混同している未熟な霊魂こそが私なのではないかと思う
のです。

この霊魂がそれら霊魂を覆い包んでいる「私ではないもの」を
愛し、感謝し、浄化し、それらから脱出することが私達霊魂の
勤めなのではないだろうかと思うのです。


結論として
私とは未熟で汚れていても霊魂だったのです。
私とは記憶の受動思考に覆われていても意識だったのです。
私とは一霊四魂だったのです。
霊魂が私なのです。
未熟で汚れに染まっていても私は霊魂だったのです。

意識・高次思考が私なのです。
霊魂から霊魂を覆い隠している「私ではないもの」が払われたとき
そこには霊魂という鏡を通じて真の私・真我が太陽の如く輝く渡っ
ているのだと教えられています。
意識から低次思考と言う霧が取り払われたとき意識から光が放射さ
れますと。

私とは「意識」即ち霊魂であり
この肉体やその行為や思考や感情や人格を私と錯覚している未熟な
「意識」が私なのであります。

その「意識」はではどこから来ているのでしょうか?
それは内なる神・真我からだと教えられております。
その「意識」とは何なのでしょうか?
それは万物であり、万物と一体であり、万物と分ける
ことが出来ない「I AM」だと言われております。

ラマナ・マハリシ達は言います。
その「意識」である自分自身の内奥を見なさいと
私自身であり意識であるその源泉の真我を見なさいと。

しかしながら現状では
この「意識」は私なのであるが
この意識である私は今のところ「自分自身である意識」ではない
肉体や記憶や人格を私を私と錯覚しているので、自分を思考や感情や
その知覚と一体化してしまっていて自分を知らないのです。


私「意識」は自分を知らないのです。
私「意識」は自分ではない偽の自分に覆い包まれていて自分を知らない
のです。
私「意識」は自分自身を知らないのです!!
私「意識」は自分の根源と繋がっていることを発
見しなければならないのです。
私「意識」は全ての人であり全世界である真我と
繋がらなくてはならないのです。
と思うこのごろです。





× 閉じる