夫れ人の心は天照御祖神の御分霊にして我の心にあらざれば天の心を育てよ・・黒住宗忠

2024/03/05(火)
夫れ人の心は天照御祖神の御分霊にして我の心に

あらざれば天の心を育てよ・・黒住宗忠

私の感想

ここで黒住宗忠師は私達とは一つの霊と二つの異なる心で構成され
ているということを示しておられます。

私達は本来は神の子であって「我の心」ではないので「天の心」を
育てよと教えておられるのです。
育てなさいと言われる「天の心」とは何のことでありましょう。
では「天の心」を含めて私達を構成している三つの心とは何でしょ
うか?
(分け御を神の御分として扱いますと)

☆一つ目は、私達本体自身である神の分霊としての心=天照らす御祖の神の御分心。
 神道で言う一霊四魂の一霊のこと。

☆二つ目は私達が自分自身だと思い込んで決して疑ったことない我の心。
 (実際には条件付けられている脳が受信した思考「私という観念・我の心」
  の記憶。それは丁度AIのような記憶システムからの条件反応である。
  それは受動思考、低次思考とも云われ高次霊的諸体の持つ高次思考
  高次知覚、高次感情、高次能力なのではない。思考とは一つだけではな
  く、思考には低次思考と高次思考あることに留意しなければならない)
  ここでは我の心とは二種類あるのでこの我の心を以下では更に二つに
  分けて説明しております。

☆三つ目は私達が育てなければならない天の心。
 天の心とは上記の高次思考である天の心のこと。
 魂が持っている高次の霊的意識体のこと。(但しこれはシュタイナーの云う
 肉体に付帯しているアストラル体、メンタル体のことではなく霊魂とともに
 ある形成途中のサイコノエティック体と言った方が良いと思われる。)
 通常の私達には機能していない霊的諸体。(開花していないチャクラのことか?)
 その天の心の機能の一つとは開眼した目とその高次の知覚、認識のこと。
 霊魂のサイコノエティック体やコーザル体の時空や自他を超えた知覚認識のこと。 
 私達は魂であるのだが、自分自身が我の心に覆われていて自分自身で
 あるこの天の心というサイコノエティック体(霊的諸体)を成長させ高次思考
 高次感情、高次知覚、高次能力を働かせていないので作動できるようにさせ
 なければならない。現在の人類にとっては認識不可能な未知なる人間の諸体のこと。
 (現在は未形成のこのサイコノエティック体・神道で言う一霊四魂の四魂
  のこと。本来は自由で有り、自他の分離という錯覚や、時空に縛られない
  高次霊的身体とその能力や高次思考、高次超感覚のこと。
  しかし私達人類の現在の状況はといえば卵の中の白鳥のように未だ卵に
  閉じ込められて成長しておらずにいる)

   ※肉体に関しては私達たましいの入っている神の器であり、肉体は神の
   最高傑作であっても、たましいの私達自身ではありません。脳に関し
   ても私達たましいが肉体の脳と結合していますが脳は私達自身では
   ありませんし、脳が生み出している、感覚や思考や感情や自己意識
   なども私達自身ではありません。
   私達たましいとはこの肉体・脳と結合した一霊四魂であり思考や感情
   ではないと教えられております。しかし四魂のうちの荒魂とは肉体の
   コーザル原子のことだと教えられております。

それをもっと分かり易く具体的な日常の生活の観点からこの私達自身を構成
している三つの心というものを霊的解剖学から解釈すると次の四つに分類で
きるのではないかと推測しています。


A:根源的な我の心のことであるが、もっと根源な個人を超えた自我の
  本体。(というのも現在意識は意識のデータベースの一部だから
  です)
  内部と外部で起こっている事を起こしている「私という観念」の
  こと。
  マインド、普遍的マーヤ、根本無明、根源の恐怖、カリー神など
  とも呼称されている。
  「三界唯心」の心、チッタ・アハンカーラなど各宗教や年代、地域
   によって異なる呼び名がある。

  神聖なるマーヤともサーンキヤ哲学では言われている。
  至高の叡智、絶対の実在、神、大生命が、神聖なるマーヤとして
  「私という観念」を使って現象世界を維持しておられます。

  それは日常生活では呼吸とともに自我・エゴとして肉体と思考と行為
  を用いて私達霊魂(ブッディー)に覆い被さっています。神がエゴ・自我を
  使って人生を生き、お互いに競争させ、お互いに戦い、自分は正しい、
  悪いのはあいつだ、私は勿論敵ではない、私は相手ではないと錯覚さ
  せています。私達・自己自我は神のロボット、映像なのでありましょう。
  我の心とは私も敵も同じ我の心なのに「私は相手ではない、私はあなた
  ではない」と、そのように自分は肉体だと固く信じ知覚し錯覚しています。
  神が神聖なるマーヤを通じてこの映画のスクリーンをフィルム・プログ
  ラムを使って人生という物語を上映しており、映像である個人・人格を  
  演じて話させ、動かし、感じさせ、喜怒哀楽を演じておられます。
  (この考えは仏教の「三界は唯心の所現」と同じです。)

・神がマーヤとカルマを使ってその人の肉体とDNAプログラムを決定し、そ
 の人の思考体、感情体を使い、又通じてあらゆる内部と外部の出来事を起
 しています。
 良い行動やその反対の思考感情衝動や欲望、そしてその良くない行動や知覚
 をも起こしておられると教えられております。
・その人の日常の行動や一切の出来事を決まっているように起こしています。
・その人に起こる思考や感情や行為を肉体や感情体思考体を使って起こして
 います。我の心を此岸から見ると「あるがまま」とも称されます。
・その人の私自我として生きています。そしてその自我として行動し、自我
 エゴとして思いや感情や願望や計画や選択や決定を起こしています。
 (しかし自我・私は私の自由意志で私は人生を生き思考していると実感
  しております)
・その人のカルマやプログラムやDNAを決定し、それにしたがって起こ
 るべき時に、起こるべき場所で、起こるべき状況で一瞬も違わず決まっ
 ているように出来事を起こしています。これは善悪を超え、現象界その
 ものの心であると推測されます。(このシステムが自分が生きていて
 自分が行為してその結果を刈り取っているという現象界のカルマを成
 立させております)この観点から見れば 善悪もなく、善悪を超えてい
 ます。敵も味方であり敵味方の区別はありません。


B:「我の心」のこと。脳からの記憶体、個人的エゴ。マナス。潜在意識
   にある記憶とも云われております。
前述の神聖なる神のマーヤが肉体と思考体と感情体を使い思考・感情・行為
して起こっていることに対して「条件付けられている脳」が受信した記憶
のこと。ヒューレン博士が言う潜在意識にある記憶の反応のこと。
霊知学ではこの脳の記憶のことを「エレメンタル」「想念形態」ということ
もある。
上記のそれら思考や感情の記憶が、丁度AIが作動して反応するように
その記憶からの反応が直ちに起こります。記憶からの反応が起こります。
その記憶の反応が「我の心」です。その記憶が脳から起こっている選択や
行為を自分が選択して自分が行為していると錯覚している。
「どうしたらこの自我をなくすことが出来るのだろう」「どういうこと
をすれば私はこの恐怖から逃れられ苦しみから解放されるのだろうか」
常に途切れることなく昼夜を問わずいつもこの我の心は働いております。
その自動的な記憶即ちAIからの反応を私達は自分自身だと錯覚している
のでありましょう。私達はこの神聖なるマーヤから起こっている出来事・
思考・感情に対して脳の記憶が更に反応し二次的にさらに受動思考が起こ
っているのでありましょう。
そして私達たましいは起こっている受動思考のことを全く疑うことなく私
自身だと思い込んでいます。そしてカルマの輪に捉えられてしまいます。
このように神が演技している自我に対して、その記憶が反応し葛藤し
苦悶しているのに、未熟な魂の私は自分自身はこの記憶だと信じ込んでしまい
神が演技している自我のことを全く逆に「私の自我」だと錯覚しております。
「この苦しんでいるのは私なのだ、自分が欺して裏切って悲しまさせてしま
ったのだ、」と思い込み、自我や記憶と同一化して錯覚が更に増幅されていき
ます。行為し思考しているのは私・たましいではないのに、未熟な魂の私は「私
が人を殺してしまった。私は何と恐ろしい悪人なんだ。俺は悩み苦しんで
いるのだ」と自我やそのことに対して反応している記憶と魂の自分自身を
一体化して完全に記憶に染まってしまっています。
思考し行為しているのはこの魂の私ではなく自我であり、その記憶がさら
に苦しんでいるのに肉体に入り脳と結合した霊魂の私は自我と自分を混同し
さらに記憶の反応を自分自身だと錯覚してしまったのではないでしょうか。


C:天の心。ブッディー。観照者。とも呼称される魂の霊的諸体。
  記憶とエゴ自我に閉じ込められ包まれ覆われている神の子。
  成長し未だ育っていない霊魂、ジーヴァ。チャクラ。

これらのカルマから起こっている出来事、そしてそれに反応している記憶に
対し霊魂である私達は完全に自己同一化し、巻き込まれ包まれ覆われ混濁して
自分を全く忘れ去って「自分は霊魂であり、それら起こっている出来事でも
なく、又それら起こっている出来事に反応している記憶でもない」ことを完全
に忘却してしまっています。
では何故忘却してしまっているのでしょうか?
何故霊魂の目は閉じられてしまっているのでしょうか?

なぜなら自分である霊魂の諸体即ち黒住宗忠師のいう「天の心」が
未だに育っていないからでありましょう。この「天の心」とは言わず
もがな霊知学でいう時空を超え、自他の分離を超えたサイコノエティ
ック体のことでありましょう。更には高次ノエティック体の事であり
ましょう。

そしてもし私達霊魂が自分自身であるこの霊的諸体の形成に或る程
度成功し、高次霊的諸体を再形成出来る段階に達したならば「私は
あなたであり、私は世界である」という霊魂本来の知覚が戻るので
ありましょうか
私という観念が脱落した正しい知覚と認識が訪れることでありまし
ょう。
即ち「自他は分離し、私は肉体で、私は万物と分離している」という人類
を厚く覆っているこの虚偽の知覚からの解放が起こるのででありましょう。

D:黒住宗忠師のいう神の子。天照らす御祖の神の分け御霊。
  そしてさらにさらにその内奥の大生命。「I AM I」真我。
  キリストの云う絶対意識。空の意識。仏陀の云う天上天下唯我独尊。
  サムシンググレート。サット・チット・アーナンダ。

残念ながら久保栄治は未だ霊的諸体が形成されておらず、魂の目も眠った
ままなので超知覚もなく、超意識も有りませんので全く分かりません。
想像することも、確信もなく、理解もなく、信仰すらありません。
何も自分自身のことは分かりません。この私、未熟な神の子の私は我の心に
覆われていて天の心が育っていないのです。ですから黒住宗忠師のいう天の
こころとは私久保栄治にとっては未知なる私なのです。

神の子の自分を知ることが出来るのは、霊的諸体が成長した場合のみであり
それはこの成長した天の心・霊的諸体でありますが、未だに私の天の心は卵の中に
いて成長しておりません。

クリシュナムルティーのいうように
「虚偽を虚偽と見て(※⇒いることの中で)
虚偽の中に真理を見て(※⇒いることが起こり)
真理を真理と観る」のであろうと推測しております。

↓印度哲学クリヤヨガによる私達人間ひとりひとりの構造概念図です
(参考にして下さい)

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