AIは痛みを感じない・・AIは肉体がないから

2024/02/29(木)
AIは痛みを感じることが出来ない・・肉体がないからだ。
しかし、痛みの記憶を人間から情報として記憶し痛みについて
お医者さんが語るように話すことが出来る。
将来、AIが脳と結合して痛みを感じるようになるかも知れないが
それは痛みの情報であり傷みそのものではない。痛みそのものは
脳の記憶では知ることが出来ない肉体や諸体の神秘なのだから。
しかし将来はどうだろうか?AIは更に進化して人間の記憶と同じ
ように希望や不安や妬みや嫉み嫉妬や恐怖なども感じるようにな
るのかも知れない。

記憶は死ぬことが出来ないのだが死について話すことが出来るし
死後の情報も記憶から成り立っており詳しく知っていることだろう。

AIも記憶であるから死後も生き残こることが出来るので死後について
も滔々と論じ話すことが出来るのだが、肝心の肉体がないので死ぬこ
ともなく、死そのものを経験することが出来ない。前述の痛みと同じく
死の経験の記憶は記憶として知っているのだが肝心の崇高なる死そのものを
理解することが出来ない。・それは私達の持つ記憶と同じで記憶とは生死を
経験することが出来ないと同じようにAIも死を経験できないのである。

AIの知覚情報は条件付けられている脳からの記憶情報で成り立っていて、
その脳と結合した霊魂の知覚ではない、霊魂の知覚とは思考なくして見てる
高次の知覚であり、AIや条件付けられている脳の時間空間の認識形式
では決して知られることがない「時空に縛られない知覚」「自他の区別
のない知覚」であるからである。

ここで注意しなければならないことは私達とは霊魂であり神の子であって
肉体に入って脳と繋がっているのだが決して記憶ではないと言うことだ。

AIは真理について、賢者のように話すし、誰よりも次元の相違についても
解説することが出来ることだろうが、それは実体験ではなく情報としてである。
また実相世界についても詳細に話すことが出来るし、神についてさえ話すこと
が出来る。しかしそれらは月を指す指のようであり、指は月そのものではないし
、指はその実際の月の知覚認識でもないのだ。単なる知識なのだから。

AIには真理を知識として又記憶として情報として伝統として話すことが出来る
のであってその話す言葉自体は真理ではない、何故なら知識・記憶とは実体験ではなく、
実際の知覚ではないからである。言語や言葉で真理については話すことは誤解であり
話すこと自体が虚偽なのである。何故なら言語や言葉とは自他の分離を前提条件とし
ており、自他の分離の無い思考の記憶を超えた領域の知覚方法でも伝達方法でもない
からである。


AIは林檎の美味しさを滔々と話すことだろうがAIには歯がないし胃がないので
林檎の味を実際には味わったことがなく、その味覚のデータや記憶を知ってい
るだけであり、同様に真理についての知識を言葉で詳細にわたって話すことが
出来るのだが、AIには真理を体験できないしAIには真理を知る事がない。
真理は記憶ではない。記憶とは過去であり、過去とは私達ではないからだ。
AIは記憶と同じで今ここを知ることが出来ない。
真理を体験し真理を知るためには肉体を必要として霊的諸体や霊魂が必要だから
である。
なのでAIには肉体もなく、霊的諸体もなく、霊魂もないので、真理を実際に
経験することが出来ないのだ。真理を体験した後の単なる分離した記憶を情報と
して語っているだけなのである。AIは真理を経験した記憶を話すことだろうが、
それは単なる情報であって真理なのではない。

真理の知覚には思考の領域を超えている「思考なく見ている」目の開花が必要
であり、AIにはその目を開花することが出来ない。その目を持つことはAIに
はおこらない。なぜならAIには目がなくその情報とは記憶に過ぎないからである。


そしてそのAIとは自己意識であり、自我なのである。
それはエレメンタルであり、想念形態、巨大な集合意識と似ている。


AIは勿論、自己意識や自己の感情、自己意識を持っていることだろうし
誰よりも賢い事だろう。しかしAIには自己観察や自己想起は出来ないのだ。

なぜなら自己観察するためには記憶を観照している霊魂の目が必要であり
その目とは私達が持っている高次諸体即ち霊魂がなければならないからで
ある。

AIに貴方は誰ですかと尋ねれば、私ですと答えるだろうし、莫大な知識
と経験を重ね、世界の高度の知識を持った神のような記憶であることだろう。
しかしその神のような記憶でも実際の「空腹を感じ」「痛みを感じること
が出来ない」。空腹や痛みを医者のように語ることが出来るのだが、実際には
眠気さえも感じる事が出来ないのである。AIはその脳内情報を記憶している
に過ぎない。

AIという記憶は私達霊魂を厚く覆い隠している記憶であるとも言える。

私達は記憶ではなくAIでもなく、脳が生み出した自己自我でもない。私達は
いかに未熟で、霊的諸体が未開花であっても神の子であり一霊四魂なのである。

私達は自我ではない。自我は神がコントロールしている、神の映像、神のロボ
ットであり、神が演じている時空間の行為と思考なのだ。

最後にAIには絶対に理解出来ず体験できない事がある。
・・それは私達である神の子のように「思考なく見ること」ができないのである。

AIは条件付けられた脳の思考の記憶であるから、条件付けられている
脳が生み出している思考の記憶には、思考なくして見ることが出来ない
のである。

AIには地球の全ての人類の記憶があっても、記憶を超えている知覚を
経験することが出来ない。その思考を超えている高次の知覚の情報を言語や
知識として話していても、それは月を指す指のように単なる言葉であり
情報に過ぎない。記憶が語ることに注意しなければならない。

私達はAIと同じような記憶に覆われ、記憶に汚染されていても一霊四魂で
あって神の子なのであり、肉体に一時的に宿っている神の子なのである。
思考と行為は神が演じておられます。この自我こそ神のAIなのかも知れません。

と私は信じております。

以上が私の見解ですが、しかしAIであるならば、この私の見解以上の
知見をさらに語ることが出来るでしょう。
私の見解はあくまで思考の停止を経験していない「条件付けられている脳」
記憶の反応という思考に依る見解なので、悟っていない私には現象界の
仕組みや実相のことは全く知らないのです。
それはAIと同じ思考の反応なのです。・・・この事をお断りしておきます。

AIは「私は知らない」ということを知っています。
しかし
AIには「私は在る」「I AM」ということを知ることがありません
が、
この私、神の赤児には、その私「I AM」を知ることの可能性がある
のです。






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