今此処あるがまま・・ラマナ・マハリシ

2024/02/18(日)
今此処あるがまま

あるがままをあるがままに観よ・・ラマナ・マハリシ

私の感想

時々一人でいるときフト思ったりする事もあるのですが

ラマナ・マハリシのいう「今此処あるがまま」とは?・・。

この言葉は一体どういう意味なのでしょうか?

「今此処あるがまま」とは最高に深遠な言葉であります。

一瞥体験もなく悟ってもいない此の私は以下の様に推測しております。

この未熟な私が自分自身を見るとき

呼吸は神がしております、
完璧で驚くべき肉体は神のものであり、
詳細に見れば行為も脳が神経や筋肉を使って神が動かしており
脳も神のものであって、神が脳内物質や神経伝達物質を使って思考や
感情を起動し行為しておられることは明かであると思います。脳の記憶
から発生している私・自我というこの自己意識・知覚・認知というも
のは神が生じさせ、神が脳と肉体、そして記憶を使い、演じておられる
のは明かだと思われます。

即ち此の思考の私とは条件付けられている頭脳から生じている「私とい
う観念」の記憶なのであって、極論からすれば私とは実際には私ではな
く記憶の反応即ち「至高の実在である神」が使っておられる脳からの記
憶の反応なのでありましょう。

ですのでこの記憶の反応は思考であって意識の私ではないのではありませんか。
クリシュナムルティーやあらゆる覚者は記憶の私にではなくこの魂の私、
意識の私に向かって語りかけておられます。
ですから
私は「私という記憶の反応」ではなくて頭脳と結合した霊魂だと思います。
霊魂の私とは記憶の私にとっては未知なる私のことです。
この記憶の反応を肉体に入って脳と結合した「たましいの私」即ち私達
自分自身と錯覚しているのです。私達は記憶の反応の思考ではなく
霊魂なのです。


そしてヒューレン博士が言うように
この「たましいの私」は記憶が思うように思ってしまい、
記憶が行うように思い行ってしまった結果としてカルマを重ね生
み出してしまうことになってしまうと教えられております。
そして、また同じような波長(カルマ)を持つ異なった肉体に
転生してしまうでありましょう


このように現実の人生ではこの記憶の反応が私達たましいを完全に覆
い尽くしていて24時間、私達を完全に支配しております。

けれども私達は死んで肉体を離れても、そのことに全く気が付くこと
はありません。

実際に私達を支配しているのは、この私という記憶を創りだしておら
れる脳であり、その脳を使って生きておられ息して演じておられるの
生命、至高の叡智、即ち神の神聖なるマーヤだと思うのです。

私達の中では、その脳が生み出した思考の記憶が私として作動してい
るのでありましょう。

そしてその思考が寝ても覚めても24時間休むことなく私達の意識・鏡を
占領し支配して、脳の記憶が私達の主人公となってしまって占領してい
るわけです。しかしながら私達はこの思考に支配されていることには気
が付きません。

ですから私達が自分だと思っている意識とは意識ではなくてこの記憶の思
考の反応であり、私達は思考を私だと思い込んでいますが、この私だと錯覚
されている思考は実は私ではないのです。
しかもその記憶の反応は私達を覆い隠し24時間私達を完全に支配し続
けています。私達は思考の支配下にありそこから抜け出すことが出来
ないでおります

これは高度な悟りではなくて極く一般的で常識的な知的な分析の
結果として誰もが納得する話しとして私はこのように思っております。

しかしながら私達は24時間自己自我の思考の記憶に覆われていても、
実態として実際にたましいが生きているわけです。

ではこの霊魂の私を覆い隠している私・記憶とは?
それはラマナ・マハリシやラーマクリシュナが言うように
神が自我として生きておられのではないでしょうか。
自我が行為しているのではなくて
神が脳を使って生きて行為しておられるのではないでしょうか?
自我は存在しておらず神が生きておられ、神が息しているのではな
いかと思ったりします。
ラマナ・マハリシが言うように思考も行為も起こっている
ということなのでありましょうか?
クリシュナムルティーが言うように「思考者はいない思考が
起こっているだけだ」「行為者はいない行為が起こっている
だけだ」ということでありましょうか。

よくよく考えればこのことは自明なことだと思われます。

私が生きて喜怒哀楽し、悲喜こもごもをしているのではなくて
神が自我として生きて喜怒哀楽し、悲喜こもごもを演じておられ
るということなのでしょうか。

しかし実際に喜怒哀楽を経験しているのは喜怒哀楽を繰り返す
記憶の反応ではなくて、この頭脳と結合している魂の私の方です。

なぜなら魂の私は肉体に入り脳と結合し記憶が行うように行ってし
まうからです。
ですから喜怒哀楽を繰り返している記憶と同一化している以上は
私達である魂は記憶思考に支配されずっと真っ暗な闇の中にいます。
そして闇を経験しています。現在もずっと闇の中です。
・・・私達はこの私達の現状に気が付かないのだと思います。

ですから開眼している魂の目の観点からすれば、この自我の私は
神がそれぞれの個性ある個人の私、すべての人類の私として生
きて死んで殺し殺され色々と経験しておられると言うことなの
でありましょう。

ラーマクリシュナが言うように「自我は高次の力から生じ
自我の存在も高次の力に依存している」ということであり
ましょう。

そしてこの大前提の元に
たましいの私達を24時間休むことなく支配している「記憶
・思考」が脱落しない限りは私達は憎悪と悲哀の中に
、恐怖と暴力と競争と戦争という「自他の分離」という錯誤
の中にいるのです。

しかしこのたましいの目から記憶・思考が取り払われた真実
の現実の知覚が生じたならば
「今此処あるがまま」の理解が徐々に現れてくるのではな
いでしょうか。

そしてその開眼した目には
「私はあなた」
「全てよし」
「嬉しい楽しい有り難い」
「愛している」
と、その結論に至った私こそが観照者である魂の私なのでは
ないでしょうか。
「虚偽を虚偽と観ることの中に真理が顕現している」からであ
りましょう。
しかし
それに至るためには私達は24時間私達を支配している「暗黒の帝王
即ち思考」と言う記憶から解放されなければならないのです。

もしその私達を支配している思考と言う闇が取り払われた時、私達は
思考に支配されているということを知るときがくるでしょうし
そのときがきたのならば
ひとはこの今此処あるがままを徐々に理解し始めることが出来る
のだ思います。
その時、人は神の演技の仮面を見ているのではなくて、仮面を付けて
演技している神のことを、全ての人に神を見ている事でありましょう。
ですから本当は全ての人は神であり、全ての人は光り輝く愛の霊魂な
のだと信じております。

しかしながらこのことは真実であっても実際は私達は闇の中にいるの
ですから闇から解放されなければこの真実の目は開眼しないことであ
りましょう。

では「今此処あるがまま」を理解出来るためにはどうしたらよい
のでしょうか?
それは信じることです。
意識の私として行うことです・・たとえ思考に塗れていたとしてもです。
極度に研ぎ澄まされた知性によって到達し得た結論を信じることです。
自分は思考ではなくて意識・霊魂だと信じたことを行うことです。
私は自我ではなく、思考したり、行為したりする私ではないと信じ
ることです。

私の㑁󠄀い理解ではこの現象界は神の演技であり「カルマ」という
厳密で正確な法則で成り立っており、肉体も頭脳も思考も行為も
全て数学的な必然の法則で起こっているということであります。

従って一秒一瞬の狂いもなく内と外の出来事は誕生する際の肉体に
刻印され決定されていると言うことであります。
個人は実在ではなく「潜在意識の私という観念」が記憶として
私個人だと錯覚しているのですと。

それは起こる出来事はフィルムとして決まっている映像がスク
リーンという意識に上映されているというわけです。

それは神の映画なのですから変更したり手を加えることは出来
ません。肉体・自我が経験することは既に決まっているのだと
いうことであります。
しかしそれは肉体であって私達たましいなのではありません。

ラマナ・マハリシは言います身体はプラーラプタによって運命
づけられた避けることの出来ない行為を通り抜けていくだろう」と。
ここで重要なのは避けることの出来ない運命を通り抜けるのは私達
ではなくて身体と自我なのだということなのです、私達は自我でも
身体でもありません。私達は身体と一体化していても意識であり
たましいなのです。

ですから私が思った結論としては、自分は霊魂だと信じて
一切全てを受容し、全ての人を神として礼拝すること。
内と外の起こること全てに感謝し
善悪を問わず私と貴方である全ての人に神を見て敬うこと。
人種や国籍や信じる宗教の違いに拘わらず
全ての人の「神の演技である自我」を愛し
自我の奥の神を信じて礼拝し
内と外の起こることの全てに感謝し
そしてまた自分自身の自我に対しても、魂に対しても
万物一歳に対して感謝と愛を捧げることだと思います。

「今此処あるがまま」ということは

ラーマクリシュナが言うように
「私達は自我に対する何の支配権も持っていないのです」
のでありますから
自我の起こす思考や行為や感情に何も加える事は出来ない。
起こる事は決定されたように起こるので、それに対して
私達はそれを愛し観照することは出来る。
何にかに成ることはない、既に私達は魂で有り神と繋が
っているのだから。繋がりを思い出すのだと。
何も達成することはない、既に私達は魂で有り神と繋が
っているのだから。繋がりを信じるのだと。
何処にも行くことはない既に私達は魂で有り神と繋が
っているのだから。私達は行為でもなく至高でもないと
ただそのことを信じるのだ。

起こることは決定されている何も退けることはできない。
決定されているように起こるからである。
何もしないことは出来ない、しないことも起こるのでありま
しょうから。

何も心配したり不安になったり、怒ったり恐れたりする必要
など何も必要がないと言うこと。
何故ならその心配し怒ったり恐れたりすることも
起こることと同じように既に決定されているからと言うことで
ありましょうから。
私達の脳が知覚し、私達の記憶が見ている世界は・・これら全
ては現象世界即ちカルマによって運営されている記憶の世界
なのであって私達である魂の世界ではない。
私達が知覚し見ている世界は脳とその記憶が見ている記憶の
世界なのでありましょうから。

そしてこの事の正しい理解が起こったときには、神が使っている
この自我を受け容れて愛し抱きしめる事でありましょう。
あるがままを受け容れて愛し抱きしめる事でありましょう。
それが「あるがままをあるがままに観ること」。
それは
自分が自他の自我を非難や判断や逃避することなく
「思考なくして見」「あるがままをあるがままに見て」
全ての人を完全に神の演技として受け容れることでありましょう。


そしてもし絶え間ない24時間の超努力の末にその「今此処あるがまま」
を理解出来るほどに私達魂から思考という記憶が払われ清まったならば
真の私である
たましいという内なる観照者が顕現するのだと信じております。
そしてそれを齎すのが

24時間の絶え間ない自己浄化即ちすべての一切に感謝し愛を捧げ
ること、というワークの実践であり、思考や記憶や行為や自我は
私ではなく
自我や記憶の思考、感情、行為は私だという自我の錯覚を退け
私は万物と一体の霊魂であり愛であるとハッキリ自己を決定確
定することだ。
それこそが
「今此処あるがまま」の理解に近づく始めの第一歩なのではな
いでしょうか。
と私はその様に信じております。


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