私達は自我に対するなんの支配権も持っていません。
現状に於ける困難さは私達は「私は行為者だと考える」
からです。
全てを為すのは高次の力であり、人は単なる道具に過
ぎないのです。
自我は高次の力から生じ、その自我の存在も「高次の力」
に依存しています。・・・ラーマクリシュナ
私の感想
ラーマクリシュナのこの「私自我は神の演技」であり、「私達は自分
に対し何もすることは出来ないし、自分を変えられないし、自分に何
もする必要はない。私自我とは神の演技なのだから」との教えには誰
もが驚きます。
通常私達は「何で、私は自分を良くしようとしているのに自分を変えられ
ないんだ!」と自分に苦しんだり、自分から逃避しようとし、自分を恐れた
り、自分が良くなるようにと色々と努力し、その果てに落ち込んだり
身動きができなくなって絶望の底へと滑落し、最後には「こんな私に誰
がしたんだ!」などと自暴自棄になったりします。
しかしラーマクリシュナは私達は私自我を変えることは出来ないし必要も
ない、何故なら私自我は神が使っている道具であり、神が私自我を使って
行為しているのであって一切、私達魂は行為をしていない!というのです。
・・・これは非常に危険な、そして且つ見方を変えれば恐ろしく理解が難
しい教えでもありますが、同時に究極の正しい真理でもあり私達を解放
へと導いてくださることでありましょう。
このラーマクリシュナの言葉は科学的知識やAIの情報などと同じよ
うな伝達可能な知識ではありません。ラーマクリシュナやラマナ・マ
ハリシ達の言葉は知識として知ったとしても理解することはできない
のです。そこが伝達可能な科学的知識とは異なる霊的知識なのです。
私達がラーマクリシュナの言葉を理解するためには同じように「愛の
レベル」まで私達が達している必要が有ります。それは動物や植物とも
会話し、あらゆる人々の苦しみと悲しみを自分の苦しみや悲しみと感じ
ている大悲、大慈、大愛の人、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出す」
愛の人でなければラーマクリシュナの言葉は理解出来ないと言うことです。
更に深掘りしてみましょう・・
ここでラーマクリシュナが「私達は自我に対しては何の支配権
を持っていません」といっている私達とは、どの私でしょう?
この私達を詳しく言うと私達はAorBのAが私なのです。
A:私自我よりは高次の知覚を持つ私・意識=魂の私なのだが
潜在意識にある記憶(自我)と一体化し、自分が思考し
自分が行為していると錯覚している記憶に覆われている。
B:思考や記憶(想念体帶)である自我の私=思考の私。自分が
思考し行為していると錯覚する私)
(このBという記憶の反応である私は、避けることの出来ない
カルマによる内外の必ず起こる出来事に対して反応している記
憶の私即ち自我の私のことです)
ラーマクリシュナのいう私達とはこの記憶と同一化してしまって
いる魂である私の事なのでありましょう。神道で言う鏡の私の事です。
・・ここは少々複雑で混み入っているので頭で整理するだけでも大変です。
このラーマクリシュナが言う私達とは、殆どの人類には自覚され
ていない私・霊魂・観照者のことであって自我の私(即ち受動思
考の私)ではない私達のことであります。
それはヒューレン博士がいう”たましい”の私でもあります。ヒューレン
博士は以下の様に言っています。
「"たましい"を構成している潜在意識や意識は、それ自
体が自らのアイデア、考え、感情、行動を引き起こして
いるのではありません。(※私達は透明な鏡だからです)
既にお伝えしたように、
潜在意識や意識は、記憶の再生かインスピレーションを追
体験しているだけです。つまりどんな体験であっても、"た
ましい"それ自体が問題をうみだしているのではないと知る
ことがとてもたいせつです。
"たましい"は、
記憶が見るように見ます。
記憶が感じるように感じます。
記憶が振る舞うように振る舞います。
記憶が決めたように決めます。」
(※そして魂は脳からの記憶と一体化して思い行ってしまうことでカルマを重ねてしまうのでしょう)
さて
ここでのラーマクリシュナのいう私達とは神の子である霊魂の私
達のことでありましょう。
それは肉体と繋がり、脳からの記憶と一体化してしまっている未
熟な私。即ち神と繋がる霊魂の私であることでありましょう。
ですので本当は、
私達は脳の思考や脳の記憶の私ではなくて、脳と結合した意識
であり神の子の私、霊魂の私なのでありましょう。
私達は脳からの思考や感情や知覚の記憶ではなくて、その脳からの
思考や感情や知覚の記憶に気が付いて凝視し意識している私達のこ
とでありましょう。
この脳及び脳の記憶と一体化してしまっている「意識の私」が現在のこ
の私達であり、この状況が地球人類の私たちの現状でありましょう。
ラーマクリシュナやラマナ・マハリシ達が言う私達とは「こ
の自我である私」ではない「意識の私」のことなのであり「脳
から発生した思考の記憶である自我のことではありません。
この事は「脳から生み出された思考の記憶」と一体化してしま
っている「意識である私達」にとっては非常に理解が難しい
ところなのであります。
ここでラーマクリシュナがいう私達とは、神によって上映
されている映画(現象界)の中で喜怒哀楽を繰り返えす
私のことではありません。それはこの毎日の日常で常に
思考し行為し生活している私のことではありません。
即ち私達とはそれは又映画(この知覚されている世界のこと)
に登場している私(即ちこの人生を生きている私達のこと)
ではなく、即ちスクリーン上の登場人物の私、痛み苦しみ必
死に努力し行為する私即ち肉体や今回の転生で形成された
諸体のことではなくて、
この映画(この現実世界・三界)を見ている観客席にいる
たましいの私の事であります。
この人生を生きているのは私達ではなくて、神が演じて
おられる自我であり、自我とは即ち神が演じておられる
映像(自我)であると仰るのでありましょう。
(カルマによって起こっている事は必然であり完璧だが
それに対しての記憶の反応が自我として起こっていると
言うこと)
・・・これは通常の神経の持ち主ならば、頭が可笑しく
なりそうな、耐えられる限度を超えている複雑な教えであります。
通常誰もが自分だと実感している私・自我とは、真実の私、意
識の私には関与することが出来ない神の演じているロボッ
トだと言うのです。
この人生を生きている私自我とは神が演じているロボット
であるというのです。
そしてこの私自我と一体化してしまっているのが即ち
神の子である私達であり、即ち私と言うことが出来る
私の事だと言うのです。私とは思考ではなくて意識の
私だと言うのです。
ですから、この信じられないような教えを・記憶と混
濁している私達はしっかりと此の自分自身である神の
子の私、意識の私を信じて確信することではないでし
ょうか。
「見て聞いて話して感じて考えて行う私」、「病気に
なったり、健康になり欺されたり欺したり、この人生を
自分の人生だと信じて一生懸命に生きている私自我」は
神の演技であり、私ではないというのです。カルマによ
って生じている内外の必然の出来事に対する反応とは
記憶の反応であってそれは映像だというのです。
・・これは一歩間違うと危険な教えでもあります。
私達は、この神の演技の自我と一体化してしまっている
のだが、思考や感情や行為は自我・記憶が行っており、
自我は私ではなく、私は霊魂であり意識であり実際には
私は行為していないのだと仰るのです。
欺し欺され、殺し殺され、搾取し搾取されている私、日常
生活で必然的に起こっている出来事に反応して一生懸命に
生きて学び努力しているこの私とは神の上映されている映
画の中の人物(自我)の私であって、此の私とは神の演技
だというのです。
そして、私とはこの神の映画を鑑賞している私だというのです。
私は映画の中の登場人物としての生きている私なのではなく
て映画(自我)を見ている私なのですと。
私は夢の中の私ではなくて、夢を見ている事に気づいている
私の事ですと。
私は自我の私ではなくて自我を見ている私の事です。
私は受動思考の私ではなくて思考を思考と見ている私の事です。
私は行為しておらず行為している私の事を見ている私の事です。
・・・ということを鏡本体の意識は知っているのだというのです。
ですので
思考と行為を見ている私達神の子は、神の映像である「自分」だ
と思っているロボット(肉体や複体や諸体即ち人類の記憶)の私
に愛と感謝を捧げる必要が有るとおもいます。
この私は神の子であると言う意識がもしも顕現し自覚されたとき
この神の映画はそこにはなくて、只光りのみ、愛のみ、完全完璧
だけがあり、自他の分離は無くて、全ては一つであると言われて
います。(鏡から「私という覆い」が取り払われたからですと。)
これらの覚者達が言われている私達とはどの私のことでしょうか?
映画という夢の中(即ち日常生活)に登場している私でしょうか?
思考し行為し病気になって苦しんでいるこの私の事でしょうか?
勉強し、学び、目標を達成し、誰にも知られ有名になろうとする私でしょうか?
殺し殺され、欺し欺され、愛し愛され、病気になり、苦しみ痛み傷む私でしょうか?
人から一目置かれ、尊敬され、誰からも良く思われたいと望んでいる私の事でしょうか?
いつの日にか必ず死を迎える肉体の私の事でしょうか?
バルド界や中有界で迷っている私の事でしょうか?
それともこの人生という映画に登場して思考し行為している私の
事を愛し観照しているわたしのことでしょうか?
この現実のこの私とはどちらの私なのでありましょうか?
朝、目を覚ましたこの私とはどちらの私なのでしょうか?
通常、私達はこの映画を見ている自分自身のことを忘れてこの映画の
中の私や夢の中の私と一体化してしまっているのです!!
そしてそのことに気が付いておらず一喜一憂している自我と一体化しているのです!
この自我という人類の集合意識との一体化から抜け出す方法はいろいろ
とあることで有りましょうが
キリストは言います
「愛を与えることで愛が与えられる」と
「求めよ、さらば与えられん」と
それは
「信じることで真実の知覚が与えられる」または
「愛し感謝する事で記憶が私から剥がされていく」とも言えそうです。
久保栄治が思うに、この朝、目を覚ましてこの文章を書いているこの
私とは、確かにラーマクリシュナの言う神の子の私達であるのですが
しかし、厚く深く自我によって浸透され、目を覆われ混濁してしまい、
思考と一体化し、雁字搦めになってしまい「思考なくして見る」事が
出来ない状態にこの久保栄治はなってしまっているのです。
私達は自分自身即ち私は魂で有り神の子であると言うことを信じなけ
ればなりません。
その為には神のロボットの私自身を愛さねばなりません、それは神の子の
私は愛であるという真実が顕れる為にです。
私達とは、即ち思考という自我に覆われ思考や感情や行為と同一化
してしまっている神の子なのでありましょう。
行為をしているのは映画の中の私なのに自分が行為していると知覚し
映画の中の私と一体化してしまっているのだと言うのです。
そしてこの自我に巻き込まれている私が自分だと錯覚しているところ
の自我を何とかしようとするのですがなんとかしようと藻掻く私こそ
この自我であり
ラーマクリシュナは「私達は自我に対する何の支配権を持ってい
ない」と言うのです。
現状に於いては自我に包まれ覆われ自我と混濁し自我と一体化して
行為してしまっていると錯覚している私には私を名乗る自我をどう
することも出来ないのです!!
それはその映像は神が投影している映像だからなのでありましょう。
正確には私や貴方とはラーマクリシュナが言う私たちは霊魂なのですが
「自分が思考して行為している」と実感し、「他者は自分と異なる」
と知覚している自我と一体化している限りは、神の子の私は映像で
あるロボットの私に包まれ混濁しているのであります。
しかし混濁し一体化してしまっていても私達は神の子であることは
変わらないのでありましょう。
変わるためには全てを受け容れて至高の実在に帰依するしか方法は
ないとおもいます。
この自分が人生を歩んでおり、自分が行動し、自分が思考しているの
だと実感している私とは、いわゆる人格の私、私達に憑依している自我
の私のことであってここでラーマクリシュナが言う私、観照する私のこ
とではないことでありましょう。
私達はこの自我の私に憑依され身動きがとれなくなってしまっている
のです。私達は記憶と混濁して、思考や感情や自我を自分だと錯覚し
ているけれども、これらの私を意識し観照している神の子なのであり
ましょう。
そしてこの自我の私を観照している私とは、「自我に対する支配権を
持っていません」とラーマクリシュナは言っているのです。
私達が見ているこの自分・思考の私は神の演技、神のロボットであり、
それを愛し観照する私達こそが即ち魂の私、神の子の私なのでありま
しょう。
「"たましい"を包括している潜在意識や意識(私達)は、
それ自体が自らのアイデア、考え、感情、行動を引き起
こしているのではありません。既にお伝えしたように、
潜在意識や意識(私達)は、記憶(カルマ)の再生かイ
ンスピレーションを追体験しているだけです。」
・・とホ・オポノポノのヒューレン博士は思い、行い、感情、感覚
、知覚とは記憶が起こしているのであると言い
更に的確に言います
「"自分"を操作するのは、インスピレーションか記憶、
(カルマ・DNA)そのどちらかです。
インスピレーションか記憶、そのどちらかが一瞬ごと
に潜在意識(ウニヒピリ)に対して行動を決定するこ
とができます。」
そうして魂で有る私達は記憶と一体化しているので
記憶が行うように思い行い、記憶が見るように見て、
その結果、記憶と一体化している限りは更にカル
マを重ねて、カルマを背負う肉体と結合して又肉体と
一緒に人生を歩む事になるのでありましょう。
「身体(※人ではないことに注意!!)はプラーラプタ
(※今回の人生で必ず経験しなければならないカルマの
こと、既に決定されている出来事・思考・行為・感情)
によって、宿命づけられた避けることの出来ない行為
を通り抜けていくことだろう。
人は身体と彼自身を同一視して、その行為の報いに執
着するか、
あるいはそこから離れて身体の活動の単なる目撃者に
なるかという選択の自由だけを持っている」
・・ラマナ・マハリシ