私とは誰の私でしょうか?

2024/01/20(土)
時々思うのですが・・

呼吸をしているのは誰でしょうか?
それは勿論大生命、大叡智です。わたしではありません。
わたしが私の力で呼吸しているわけではありません。

見て、聞いて、話して、感じて、考えているのは誰でしょうか?
それは私の力で見て、聞いて、話して、感じて、考えているのではなくて
肉体の脳が機能しているのです。
そしてその五感は大生命、大叡智のものであり、大生命がそれをしています。
身体が、脳がしているのです。
私ではないのです!!
脳は私が創ったものではないからです。
従ってこの私も私のものではありません。


それではこの肉体と脳は誰のものでしょうか?
それは肉体も脳も
そして脳の結果であり。この私も神のものです。

それは勿論私が肉体や脳を創ったのではありませんから、
この私は私のものではありません。
肉体も脳も私も大生命、大叡智のものであって私のものではありません。
私の脳であり私の肉体だと思っているこの私も私のものではありません。

宇宙を創ったと同じ大叡智、大生命が脳と肉体とその記憶である
私を創り私を動かしておられます。私とは神が動かす映像・ロボットです。

動物や昆虫や植物や鉱物を創ったと同じ大叡智が
わたしの、そしてすべての人間のこの脳と肉体を
創り維持し動かしておられるのです。

原子や素粒子を創り動かしているのと同じ大叡智が
肉体と脳を創り、記憶である私を動かしています。

私が自分で脳を創ったのでもなく、私が自分で肉体を創ったのでもあり
ません。
神によって誕生した私という記憶が自分である記憶即ち私として生きて
いるのです

私という記憶は只単に「条件付けられて脳」の結果であって、私は脳の
条件付けに従って条件付けられているようにしか思考し、知覚し、感じ
行為する事しか出来ません。この私はDNAによって決定されている
ロボットです。

では誰が悩み、苦しみ、嫉妬し、自己主義で、計算し、色々と計画し
、競争し、闘い、殺し合い、奪い合い、思考し行為しているのでしょうか?
それは勿論、条件付けられている脳が生み出したこの記憶です。
この私とは脳の記憶なのであって、記憶である私は私の私でもありませんし、
記憶は私の記憶でもありません。大叡智が脳を経由して記憶を使って私とし
て行為し生きているのです。

この私は私のものではないのです!!
この私は映像であり、意識のスクリーンに写し出されている架空の人です。
この私は神のもの、神の映像なのです!
本当は私はいないのです。神が演技しておられるので、神しかいないのです。

実際には脳は私の脳でもありませんし、記憶も私の記憶ではありません。
記憶とは私の記憶なのではなくて人類全体の記憶なのです。
条件付けられている脳の結果の記憶が私であり
私とは脳の結果であり、その脳の記憶の反応が私なのに、
この記憶の私は「私の肉体」「私の記憶」「私の自分」「私の脳」だと
錯覚し「私の考え」「私の欲望」「私が生きている」と完全に主客転倒
してしまっているのです。


では、私の肉体で、私が見て、私が聞いて、私が思考している。
私が行為しているのだと錯覚してしまっているこの私とは誰でしょ
うか?
それは記憶です、記憶に過ぎません。記憶が私なのです。

私が見て、聞いて、思考して、行為しているのではなくて
実際には大生命、大叡智が脳と肉体を使役して
見て、聞いて、思考して、行為しているのに・・・。
「条件付けられている脳」の結果の記憶・・即ち私は
自分が聞いて、自分が決定し、自分が思考して、自分が行為している
と錯覚しているのではないでしょうか?

実際には私という記憶が生きているのではなく、感じているのでもなく
、思考しているのでもなく、生きているのでもなく、行為しているので
もありません。至高の叡智がDNAを使って生き、行為し、思考しています。

私とは単なる脳の結果の記憶なのです。
生きておられるのは神・至高の実在なのです。
神が脳を使い、記憶を使って生きて思考し行為されているのです。
生きて演じておられるのは神であり記憶である私なのではありません。
起こっている出来事、思考や行為とは断じて脳の記憶である私
がしているのではありません。
神が人として、私や貴方として悩み苦しんでおられるのです。

脳と肉体を創ってそれを使っている大生命、大叡智が、神が御
自分のものであるその脳と肉体を使って見て、聞いて、感じて
苦しんで、悲しんで、お互いを憎しみ殺し合って人生を演じて
おられるのではないでしょうか・・・・。

ここで大きな疑問が私達に起こります。

何故、神はこのような苦しみを演じておられるのか?
即ち演じている映像の私たちに苦しみを与えるのか?
演じられている私を苦しめるのか?
・・であります。

どうしてなのでしょうか?
グルジェフのようにこの道は神に背く道だと言いたくなります。

では何故闇が創られ存在するのでありましょうか?
それは光の存在が明らかにされるためでありましょう。
愛が明らかにされるためでありましょう。
光の存在は闇がなければ知られることはありません。
同じように愛があるためには愛する主体と愛される対象
という分離分割が必要なのです。
統合がある為には、分離が無ければならなかったのです。
神自らが光であることを、
神自らが愛であることを、
神自らは不二一元であることを、
神自らが再認識するために、
神自らが自らの中に闇という記憶即ち人格の私達を生み出し
自らが光であることを再認識し、
自証するために闇という記憶即ち人格の私達を生み出した
のではないでしょうか?

神は愛なりと教えられております。
「愛なくば全ては虚しい」と教えておられます。
愛とはわたしはあなたである状態です。
愛とは見る者とみられるものが一つである状態のことです。
愛とは私である欲望、羨望、自我、憎悪、暴力、恐怖とそれを
知覚する私が分離していない状態のことです。
それは私があるがままの私を愛している状態のことです。
それは「見るものは見られるものである」状態のことです。
非分離の状態のことです。
非分離の状態とは愛のことです。
それは、この恐怖を愛すること。
この私自我を私自我が愛することです。
私たち神の映像が自らが無知無明であり、この自らが
自らの根源に至り、自らを愛すること。自らが解消されること。
それが私達人格が創られた目的なのでありましょう。

平たい言葉で言えば
自分が「自分自身を愛すること」・・これに尽きると思います。
これが人間が生きている目的です。


即ち私達が私達自身を愛することの為に私達という映像は
創られここにいるのでありましょう。

「見るものは見られるものである」とは
まさしく愛の状態即ち、自他が分離していない状態を指し
示す言葉です。
この主体と対象という分離区別の消失、わたしはあなたであ
るとの分離が無い状態
即ち
恐怖を見ている私が恐怖である時
私を悩ませ苦しめる相手が私自身である時
そこに分離が無く
「見るものは見られるものである」であるとき
そこに愛があるのでありましょうか!!

私が対象として相手を見ているとき
私があなたのことを私とは異なる人間と見ているとき
私が世界や万物を私ではないと分離して見ているとき
それは自分は肉体であり、私が行為して、私が思考しているとの
実感があるときのことですが
・・・私はこの状態であるいうことは
それをその様に知覚しているのは記憶であり自我であることであり
ましょう。
その分離して見ているのはロボットが見ているのです。思考が見てい
るのです。

この自我は自分が行為している。自分が自分の人生を一生懸命生きている
との実感があります・・・ということは
このその自分が行為していると知覚し認識しているので、この知覚してい
る者は当然カルマの中に在りカルマの報いを受けることになります。
従ってその三界という現象界にいる間は私達はカルマの除去のために一生
懸命正しく人生を歩み、正しく思考し行為しなければなりません。

しかしながら神の恩寵で
もし私はあなたであり、あなたが私であるならば
そこには行為している私がなく、思考している私もなく、従って
万物が私であるとき、そこに神を見ることが出来るわけです。

その見ている私とはロボットである記憶の私ではなくて未知なる
真の私であることでありましょう。

その時、魂の私はこの私自我に対する何の支配権も持っていないことが
理解されるのでありましょうか。




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