体験者、観察者、観照者・・三つの視点

2024/01/09(火)
体験者、観察者、観照者・・三つの異なる視点

私達人間にはそれぞれが異なっている三つの視点、三つの私、三つの目
の段階がある。

IQや才能や成功者かそうではないに関わらず、性別や人種や病気か
健康かには一切関わらず、人間としての知覚の段階、意識の段階がある
のである。

これをエレブナでは人間の進化の階梯として捉えており
・本能的意識状態
   (左脳・右脳・動物脳だけが意識と繋がり、性器と肛門部位にある
    チャクラしか機能していない状態)
  ↓
・潜在意識的意識状態
   (意識が脳とだけではなくて丹田部にあるチャクラと繋がり、自己意
    識主体がその本人の太陽神経叢にある潜在意識にある状態。
    思考が支配しているので私が一生懸命生きて努力して、家計を支え
    正しい行いをし、人に優しく人生を良くしようとしている)
  ↓
・意識的意識状態
   (私意識主体はハート付近にあると言われているチャクラ・中丹田
    にも位置し、テレパシー・同調・共感アチューメント・意志疎通が
    可能となり欲望・思考・感情にあまり左右されなくなる)
  ↓
・超感覚的意識状態
    (私意識主体は松果体付近にあると言われているチャクラ・上丹田
    へと位置し、自他や時空を超越しコーザル体と繋がり、諸体が再形成
    されはじめ遠隔など各種ヒーリング、テレポ・バイロケーション、 
    同調・共感・アチューメント・万物との意志疎通が出来、その結果エ
    ルダーブラザーと共働することが可能となる)
      ↓
・超意識的意識状態。
    (私意識主体は、ハート中央にあると言われている霊太陽・真我
    に合体し、全てに愛と神を見、法華経の「衆生劫尽きて大火に焼
    かれると視るときも吾が浄土は安穏にして・・」という境地であ
    り、不二一元を知覚認識し実相を観ていると思われる。
    意識の主体が思考ではないので行為も思考も起きており、神が
    思考と行為をしていると知覚している無為の状態。)

この超意識的意識状態での視点とは覚者達の言葉として多くの著作に
残されているのだが、如何せん、その段階の意識ではない私にとっ
ては残念ながら想像することも出来ず、推測することも出来ず、誤解
はしても、全くそれを理解することなどは出来ないのであります。
従って見る者と見られるものの二元の知覚が支配しており、行為は私
がしており、思考も私がしていると実感している範疇におります。


このエレブナの意識の階梯を私は自分なりに分かり易く

★体験者・経験者視点の意識段階(本能的意識状態)
  起こっている出来事や、起こっている思考・行為に対
  しての記憶による条件反応と一体化している状態のこと。
  起こっている出来事とは神聖なるマーヤ、映像であり
  それは行為、思考、感情、起こっているカルマであります。
  それに対しての条件反応がこの人類の記憶帶からの反応の
  こと。それはこの人格の私のこと。即ち思考の記憶の私のこと。
  しかしながらこの段階は起こっている衝動と欲望に完全に
  振り回されている。

  思考というこの私という観念の記憶は「カルマによって自動
  的に起こっている思考や欲望や衝動や出来事や行為」に対して

  自分が出来事を起こし自分の意志で行為していると錯覚してい
  る記憶なのであり、魂からの私はこの記憶と完全に一体化して
  しまっているのがこの体験者、経験者という状態なのである。

  この記憶の反応はロボットまたは神の演技・自我とも言われている。
  しかしこの記憶は個人ではなくて人類全体のものであると思われる。
  魂からの私は自分が完全に記憶・想念形態・人格と一体化してしま
  っていることにすら気が付かないで生活している状態。
  一生懸命、努力してお金を儲け、安定した人生を健康で過ごしたい
  と思うのは思考が意識を覆い尽くして自分が生きていると錯覚の中に
  いるからである。  

★観察者視点の意識段階(潜在意識的意識状態)
 (脳の記憶に覆われている魂からの私の高次思考及び意識が
  混濁してしまっている意識状態のこと。
  未形成のサイコノエティック体のこと。
  本来の意味での現在のパーソナリティーのこと。しかしながら
  記憶と一体化し合体してしまって自分は肉体だと錯覚し他者は
  私ではないと実感している。徐々に「自分が行為していると錯
  覚している記憶」気がつき始めている状態。

★観照者視点の意識段階(意識的意識状態)
  思考が終焉しているので、行為者がおらず行為は起こっており、
  しかもその行為や意識は至高の実在から起こっているとの知覚がある。
 (魂の意識。覚醒者や賢者達の意識・・けれどもこのことは現在の私
  には全く知覚・理解不能)

★真我視点の意識段階(超意識的意識状態)
 全く以て推測不能。
 
 と分類してみた。

私も含めて迷える人類という普通の人々を見るに、今の地球人類は
にこの最初の本能的意識段階即ち体験者・経験者意識の段階であり、
生まれ死に、殺し殺される体験者・経験者として生きているので、
この体験者、経験者を観察している観察者の段階にすら全く至ってい
ないのではないかと思える。

私達は条件つけられている脳の反応の記憶しか知覚していないの
である。この意識面で意識されている私とは人類共通の集合意識
、人類の記憶であり、その記憶が自分は個人だと錯覚していると
言われている。 

私とはロボットであることが腑に落ち理解しているときロボット
状態を超越している観察者の段階が訪れているのではないだろうか。

悲しいかなロボットの私は、このロボットである行為者、経験者
、体験者の私の事を愛情をもって大切に観察していないのである。
自分が自分を観察していないのである。思考が思考を自己観察して
いないのである。

悲しいかな映像の私は、この映像であり神の演技である私の事を
愛を以て観察していないのである。

私、行為者、体験者とは魂の私ではなくて、ロボットであり、ス
クリーンに投影されている神の映像の記憶なのだということだろうか。

観察者とはその映像の記憶であり、条件付けられた脳の記憶の反応
の私を自分自身と「確信してしまった魂と繋がる私」であるという
こと。

現代風に言えば、PC上のAIという記憶の反応を、それを操作し
ている人が自分自身の反応だと錯覚してしまっている状況と似ている。

映像である起こっている出来事や行為に対して反応している私とは
魂に繋がる私ではなくて記憶による条件反応であると言うことなの
ある。

私達は条件付けられている脳の反応に浸透されてただただ犬のように
「ワンと吠えられればワン」と吠え返している本能のままであり
決してそのワンと吠え返している私を「客観的に観察すること」を
しておらず、私達には自己を見る観察者としての視点すらないのだ。

私達は自分を見ているようで、実際には自分を観察などしていない
のである。起こっている思考や感情や衝動に同一化しているだけで
はなくて「私は私であると主張する記憶の自分=思考」と同一化して
しまっていて、その自分を私だと確信して流されているだけなのだ。

しかしながらごく少数の人類の中にこの記憶の反応である体験者・経
験者を観察する「観察者」の段階に至った人々がいることも事実で
あることだろう。

「観察者」とは「自分自身という体験し経験している記憶の私」の事
脳の上部から観察しているような視点である。悩み、恐れ、暴力的
で、絶えず悲しみ、絶えず求め、痛み、苦しみ、利己的で、分離して
いる記憶の私と同一化している私を自己観察している私の事。

「私は相手ではない。私は人格の私だ」と主張している記
の私のことを時々客観的に見ている私のことである。

思考が脱落したとき、私は脱落し、私が行為している、わたし
が生きているという観念も脱落し、至高なる実在が行為と思考を
使い始めることだろう。神と共に生きることが起こるという。

クリシュナムルティーはこの観察者の事に関して、「観察者
は観察される者である」とさらに高次の視点である観照者=魂
からの視点で私達人類に対して教え話されている。

魂の目、観照者の視点とは真実の私、本当の私の目のことであ
るのだが、私の現状では、この本当の私の目が思考と混濁し
てしまっているので正しく見ることが出来ないでいる。

観照者の目が語るところの
「観察者は観察される者である」とは目の前の相手は私の姿
であり、私を苦しめる敵とは私の事であるということだ。

内部は外部であり、内は外、外は内であり、私はあなたであり
「私は世界である」という実相の知覚なのである。

黒住宗忠師がいう「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写し
てや見ん」とはこの真実の知覚を実感している観照者の目の視
点からの言葉である。

この視点は観照者の視点なのであって、この高次の教えを意
識的意識の段階や本能的意識段階にいる人間に対して話して
も、何のことやら全く理解することなど出来ないのである。
曲解し誤解するだけである。

黒住宗忠師の教えを理解出来る人は観照者の段階の人である。
全てに神を見ている目の段階の人である。

他人は他人であり、私と分離しているという、根本無明
の大錯覚に洗脳されている私達にはこの黒住宗忠師の教えは
到底、理解することなど出来ないのである。


闘い、競争し、成功し、到達しようとして藻掻いているこの
体験者・経験者即ち私、現在のパーソナリティーの私に対し
て、私達はこの私・自己の観察者としてこの「私自身である
体験者・経験者」を愛し、抱きしめ、自分自身に耳を傾けて
いるのであろうか?

私達がこの体験者・経験者を愛し抱きしめる事の出来る観察
者の段階に至ったとき、
私達は自己の観察者としてエレブナのいう「意識的意識状態」
のスタート地点に立ったのであり、観察者の奥にあると教えら
れている「観照者としての私」への道を歩むことになるのだろう。


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