・・クリシュナムルティー
私の感想
「あるがままをあるがままに見ること」があるがままからの解放を
齎す・・とクリシュナムルティーは言うのであります。
即ちこの私自我を非難したり、分析したり、変えようとしたり、又逃避
しようとしたり、又自分から目を逸らしたり、無視したりしているこの
私自我を、ただただ凝視しなさいと。
目の前に起こっている世間の出来事に心を奪われていないで
自分の反応を凝視しなさいと。
この暴力と恐怖であり、そして常に獲得し、成ろう、至ろうとしている私自
己自我を、ただただ凝視しなさいと。
この自己自身を対象化して自分を分析したり、自分を高次の私と低次の私に
分割して観察している私自我のことを、ただただ凝視しなさいと。
静かにじっと、ただただ自分を客観的に凝視しなさい・・と言うのであります。
そして、それが自己変革の方法であるというのであります。
即ち、思考に依る分析や非難や判断をするのではなく、じっと黙って静かに
苦しんでいる私自己自我と一緒にいてあげること。
悩み苦しむ私と一緒にいてあげること。
・・それが・・自己観察・自己想起のワークであり
その自己凝視が自己を浄め、自己から解放される方法である
と言うのであります。
それは、このあるがままの自己をあるがままに見ること。
思考を使って自己分析したり、自己解析したりせずに自己を見ること。
この狡猾で、高慢で、思いやりがなく、いつもソロバンをはじ
いている私自己を、
万物と分離していると錯覚し恐れている私自己を非難したり
私から逃避することなく私と一緒にいてあげること。
この恐怖と、嫉妬心と不安に包まれ、愛もなく、暴力的な私自己
と一緒にいてあげること。このわたしに愛を注ぐこと。
自分が生きていると錯覚し、
自分は生かされていることを知らず、
自分自身が与えられている存在であることに感謝もせず、
自分の努力で自分の力で、自分の人生を切り開いていると錯覚して
いるこの無知で傲慢な私自己と一緒にいてあげること。
私自身が私である自己を分割して自分の観察者として
自己を非難したり、
私自我が自己を良くしようとしたり、
自分が問題を解決しようとしたりせず、
又、自己を変革しようとしたり、自己自我を解消したりしようと
せずに、黙ってこの私自己と一緒にいてあげること。
恐怖と一緒にいてあげること。
そしてこの私自己である恐怖の根源へと一緒に辿り着くこと。
この自己の源泉に辿り着くこと。
不満と渇仰、「成ろうとする自己」の源泉へと私と一緒に辿り着
くこと。
悲しみからの解放や、
その反対の歓喜へと逃避するのではなくて、
又、
自己実現や、自己の悟りとか言う自己本位な欲望に振り回されるのではなく
その私という個人個人の悲しみ苦しみの大元である人類全体の悲しみ苦しみ
の根源へと辿り着き、その私個人を超えている巨大な人類全体の悲しみ
と苦しみに出会い観照しているとき
・・・そこには、求めもしないのに大悲、即ち大慈悲、神聖なる愛アガペが
出現しているのです。・・と言われています。
悲しみや自我や、「成就・至るという欲望」や、不満・不安・渇仰
というそれら自我を変えようとしたり、自我から逃げようとしたり、
それらを色々と分析したり思考したりして思考に汚染されることなく、
その自我と共に自我の根源へと至るとき
そこに慈悲が、愛が求めもしないのに、そっと姿を顕していると・・・。
クリシュナムルティーは教えておられるのではないでしょうか。