自己観察せよ・・クリシュナムルティー

2023/12/09(土)
自己観察せよ・・クリシュナムルティー

私の感想

この言葉を知ってから早や60年近くになりましたが。
いまだに実践することも出来ず、理解することもできません。
これは全く以て単純で簡単なことではなくて、私も60年に
わたってこれだけを探求してきましたが、いまだ全くその
スタート地点にも立っておりません。

さて、ではクリシュナムルティーのいう自己観察とは何で
しょうか?どうすれば良いのでしょうか?

車が幅寄せられ煽られたり、自分の名前が部下より後に呼ばれたり
自分のことを無視されたり、妻や夫の浮気が分かったりしたとき、
地縛霊に憑霊されないかと恐怖に慄いているとき、どうすること
も出来ない最悪の事態が起こったとき、そのようなときに、この
私・自我が顔をハッキリと出します。
しかし本当は24時間中この自我に私達は支配されコントロールされ
ているのですが、それを自覚していません。
と言うより自我は私達のコントロール下にはなく、私達は自我を
消すことも弱めることも出来ません。私が自我だからです。

自我が目を覚まし、夢を見て、そして生きて、眠っているのです。
自我が感じ、反応し、知覚し、考え、決断し、行為しています。
わたしは眠ったまま生まれ、生活し、そして目覚めることなくまた、
肉体を離れていきます。

「その自我は私ではありません」と未知なる本当の私は言われます。

そして、通常は、この自我は自分自身である自我から逃避しようとし
たり、自我は名前を付けられ、自我は自我ではないと思い込んで、自
分である自我を改善しようとしたりします。
しかし、この自我を知覚し、観察して何かに成ろうとしている私、
この私自我の観察者こそがその自我であることを自我は知りません。

クリシュナムルティーは言います。
「観察者は観察される者である」と。

未知なる私・「観照者」
この観察者を観照している私であり、観察者という思考ではありません。
恐怖をみている者は恐怖であり
「自我を見ているものは自我である」ことを観ているのが観照者であります。

「思考・記憶という自我を見ているものは自我であり思考である」ということ
を観照しているものこそ意識である私即ち観照者の私なのでありましょう。

普段は自己イメージの後ろに隠れている自分の自我は決して表
にでてこないので日常生活ではあまり意識されませんが、
この毎日の日常生活の表面意識で知覚し知覚されている意識こ
そがこの自我即ち自分自身である自我であり、自己を対象として
観察をしているものであり、自己観察されている者でありまし
ょう。その証拠に私の知覚は思考と言う自我の知覚なので、私と
あなたが別々で分離している実態のように知覚されていること
です。
もし観照者の知覚であるならば、私とあなたは別々の存在で
はなく、私と世界は分離していないことでありましょう。

未知なる観照者の目には対象と主体の分離が存在していな
いのです。つまりこの未知なる本当の私には私とあなたという
分離区別はないのです。万物と私は一体なのです。

クリシュナムルティーは「この分離を観察している私とは観
察される者である」といいます。
黒住宗忠師は「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや
見ん」といいます。
またヒューレン博士は「外部は内部である」「相手を癒やす
のではなくて相手と知覚されてしまっている自分である私を
癒やすのだ」と教えています。

この私・自我・思考は知覚し知覚されている自我・思考・記
憶であることを実際に理解し、腑に落ちたとき、その理解が、
この自己自我記憶からの解放を齎すと言っておられます。

私が私から解放されるのです。私は思考から解放され自由と
なったのです。私は自他の分離から解放され万物と一つに
なったのです。
・・・私は空に戻ったのです。と

つまり
「虚偽を虚偽と見ること」が虚偽からの解放をもたらすので
ありましょう。

即ち自己観察が自己自我・私からの解放をもたらし、自己想起
へと導かれて行くのでありましょう。
それが
「虚偽を虚偽とみることの中に真理がある」ということで
ありましょう。

その為には
この困難な作業である「自己観察」を実践することであります。

それはこの自己自我をあるがままに受け容れ愛すること・・。

自我に善悪というレッテルを付けたり、判断したり、自我から
逃避したり、退けようとしないで、じっと一緒に側にいて、
その苦しみ、悲しみ、恐怖、不安を共に味わってあげること
・・即ち自己自我を抱きしめ愛することこそが、その自己自我
からの解放を齎すのだと。
と言っておられるのでありましょう。



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