自己を想起しなさい・・G・Iグルジェフ

2023/12/02(土)
自己を想起しなさい・・G・Iグルジェフ

私の感想

このグルジェフの言う私を想起する前に私ではないものを
私ではないと知ることが
大切なのではないだろうか?

では、私ではないものとは何だろうか?

それはこの肉体を私だと思っているこの私のこと。
即ちそれはこの私、これを書いている私。
この私こそ私ではない私だ。
それは
私はある国の国民であり、ある民族だと思っている私。
自分は生まれそして死ぬと思っている私の事。
脳は私の脳であり、相手は私ではないと実感している私。

自分はあなたではない、私は見られているものではない。
とそのように全てを分離して知覚している私。
それは条件付けられた脳からの記憶であることだろう。

それはこの私、通常、人類全ての人が自分だと思って疑わ
ない「脳が生み出したこの記憶」のことでもある。
この私ではない私とは脳の記憶なのであり、それがこの私だ。

この私ではない私とは即ち「私という観念」の私、私ではな
い私、私が私だと錯覚しているこの既知なる私のことである。


この「私という観念」が思考し、感覚を支配し、感じ、行為
し、人生を生きて、毎日行為して、常に何かに至ろう、常に
何かになろうと努力しているのではないか。

そしてこの記憶の私とはラーマクリシュナによれば神の演技
だというのである。


既知なるこの私は機械の私、映像の私、神が演じておられる
神の道具なのである。マーヤという映画のスクリーンに上映
されている映像なのであるという。

それが既知なる私というこの「私ではない私」なのではないか


私達が自分だと思っている私とは記憶の反応であり、それは
私という観念なのであってグルジェフの言う自己想起すべき
私の事ではない。

では自己想起すべき私とは如何なる私なのか?

それはこのスクリーンに上映されている映画を観照して
いる私。観照者の私。

それはこの記憶の反応という既知なる私ではない私。
脳の反応という思考ではない透明なる意識、空の意識。

それは既知なる私は私ではないと自覚している私のこと。
それは既知なる私を観照し観ている私であり、人の苦しみが
即、自分の苦しみである慈悲の人であることだろう。
それはまた自分と対象の区別を持たず、空間に拡がっている
人であることだろう。それは時間と空間という束縛を持って
いない人であることだろう。

しかしながらこの魂である私とは
ラマナ・マハリシによれば魂である私達はこの自我である私
、「私という観念」の私に対しては何の支配権も持っていな
いのだと言う。ただただ観照しているのだという。

自我の私は「あるがままがあるがままにあるのです」と。

何故ならば
この私という「私を詐称する自我」とは神の演技なのであり
(神の根本無明、神からの私という観念、神のマーヤ)
その神の演技である記憶の私、即ち私を使って神が生きて
おり、その私は肉体を自分だと思い、人生を生きて、目標
を持ち、至ろう、良くなろうとして毎日を一生懸命に生活
しているのですと・・。

そして悲しいかなこの記憶の私と結合した魂の私は、
この記憶の私と同一化し、記憶に支配されてしまっ
ているのですと。


ではグルジェフの言う自己を想起しなさい・と聞いてい
る私とは誰なのか

ラマナ・マハリシの言葉を聴くのはどの私のことなのであ
ろうか?

それはその私の知覚を調べることで一目瞭然で判明する。
この知覚は脳の知覚であり、脳の記憶の知覚であって、脳の
知覚を自分の知覚だと誤ってしまった魂の知覚ではない。
知覚を識別するとき、この知覚は既知なる私即ち記憶の知覚
であって、決して未知なる私ではないことが了解される。
時空に縛られ、自他に分離・分割してしまっているからである。

この「分離を知覚している私」は私なのではない・・というこ
とが自ずと判明する。この分離している知覚である私は神の演
技の私なのである。
この私は神が投影しているヴァーチャル映像なのである。

しかしながらこのヴァーチャルの映像の私を神の演技だと知覚
しているのはヴァーチャル映像の私ではなくてそれを観ている
観照者の私なのではないのか。

それはミルダッドが言う一切万物と分離していない私の
ことではないか。

それは「虚偽を虚偽と見ている私」のこと。
そして更に次のステージの
「虚偽を虚偽と観ていることの中に真理がある」へと続き
その段階から魂自体の自己認識へと続いていく
それが「真理を真理と観ていることが真理の目」なのであると。

「私ではない記憶」の反応を「記憶は私ではない」とみている
私の中に真理がいるのであると。

この自我の私を観照している私の奥に本当の私・神が存在
しているというのである。その私とは万物と一つの私
なのだと。

その万物である私、万物の私と分離していない私こそ自己
想起すべき私である。私達は内なる神を想起しなければな
らないのである。

この至高なる自己を想起している私こそ
「I AM I」であり、万物であるこの至高の私を内に秘め
ている観照者の私のことである。

ではこの自己想起すべき私「I AM I」とはなんだろうか?


その私とはあなたであり、苦楽している人であり、全ての人、私
の見ている動物でもあり、椅子でもあり、車でもあり、土地でも
ある私。

私とは昆虫でもあり、空でもあり、雲でもあり、水でもあり、魚
でもあり、土でもあり、私の敵でもあり、味方でもあり、親でも
あり、子でもあり、世界の万物であり、コンクリートでもあり、
でも、会社でもあり、万物一切とひとつであることだろう。

最小にして最大、全ての中に私がいて、宇宙が私である私。
それは見る者と見られるものに分離しておらない内なる魂
のことだろう。

その私は私の中の恐怖でもあり、憎悪でもあり、喜びや悲
しみでもあることだろう。


このグルジェフが自己想起しなさいと言われている私とは
「あなたである私」「万物一切である私」のこと。
万物一切と分離していない私のこと。
クリシュナムルティーの「世界である私」の事なのであろう。

自己想起すべき私とは「I AM THAT I AM」な
のである。神道で言えば黒住宗忠師のいう「神の子」
の私。全ての中にあり、全てと一つである私の事であろう。

その万物一切であり、全ての人類の一人一人である本当の私
の事を常に思い出しなさいとグルジェフは言っている
のである。

「I AM I」「私は成るのではなく在るのだ」「私は在る」
と常に唱えなさい、といわれているのである。

世界はあなたであり、あなたの中に世界が有るのだと言われ
るのである、万物はあなたであり、あなたの中に万物が在る
のだ言われるのである。

それこそが私の源泉に帰還する道なのではないだろうか。










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