世俗の暮らしをする人にとっては、
一切は夢のようであるというそのような教えは良
くありません。
私は肉体であるという、無知である意識がなくなっ
てもいないのに、「私はそれである」というのは良
くありません。
感覚の対象を捨てることが出来ないものは、
どうしても「私という観念」はなくなりません。
神が行為者である。
しかし人・個我は、自分自身の行為に責任がある。
そして行為とは、間違いなくその人・個我に結果をもたらす。
善因は善果をもたらす。しかし目的を達した人、神を見た人は、
罪を犯すことはありません。神の行為が自然と出来るのです。
神が行為者。しかし、人・個我は自分の行
為に責任があります、行為の責任があるの
です。ラーマクリシュナ
私の感想
思考が停止した方々の言葉を読んで、私達は行為は起こっているのだと単純にそう
思ってしまいますが、その悟った方々の言葉は個我(思考の記憶・人格)からでは
なくて思考(思考の記憶)がなくなっている自由の状態から話しているのでありま
す。が、それを聞いている私達とは思考から自由ではありません。
従って「自分が行為している」「自分が行為している」「自分は他者ではない」と
いう思考が引き起こしている実感が現実である限り、そのことで意識が一杯であ
る限りは、
覚者達の「行為は起こっている」「私は思考ではない」「私は自由で有る」など
思考が停止した方々の直覚の知覚による言葉をただその言葉を覚えて鸚鵡のように
又テープレコーダーのように理解していないのに喋っているだけであるということ。
そのように
なりきって話している私達自身の実態とは「行為者はいない」「わたしはあなた」
と、その様に見えているわけではありません。私達が浄化されない限りは私達は
嘘をついていることに気が付きませんし、他者を私とは異なると見ているのは
思考であることにも気がつきません。
子供がウルトラマンになりきっているのよりたちが悪いのです。そのように私達は
自分が聖者になりきっている思考がそう思っているのに過ぎないということに気
が付くことはありません。
しかしその「他人ではない私」「私ではない他人」という思考の知覚認識がある限り
は、行為の結果というものを良いにせよ悪いにせよ全てを私達が身に受けること
になるということです。
私達は行為の結果を受けとるのでありましょう。
何故なら思考であるこの世界では自分とは異なって独立したあなたがいて、その私が
善悪の行為しておりますし、その私と異なる他者がいる世界を知覚している思考が
機能している限りは、当然のことながら、その行為の責任は行為している私にある
からです。
思考が停止しない限りはヒューレン博士のように全ての人は内側にある・・という
真理は決して理解出来ないのです。
従って、ラーマクリシュナはこの「私と分離している他者がいる」と知覚する思考が
働いているこの世界では、自分が行う行為、そして自分が思う思考の結果は自分が
全て負うことになりますと仰っておられます。
自分がした行為の結果は自分が背負うのです。
行為が重要なのです。如何に思い行うかの責任はこの知覚している私が負うのですから。
正しく行為しなければなりません。行為している実感がある以上は・・。
世界を自分とは分離していると知覚認識している私達の思考の世界では因果
応報なのです。
それ故にこの自分がいて相手がいると自他を分離する知覚認識をしている以
上は、即ち自分が生きており自分が行為しているという実感がある限りは行
為の責任は行為者即ちこの私が負うことになります。
何故なら自分が行為したからです。
それゆえにこの自分と他者に分離している知覚がある思考が生み出した現象
世界にいる限りは正しく思い、正しく行うことが最重要となります。
全てを有り難く受け容れ、正しく行い、一切全てに愛を注ぎ
愛を持って接し、感謝し、自分を含めて一切の全てを許すことが一番重要なのです。