私とは混合しているのでありましょう。
日月神璽がそれを的確に示していると思うのです。
私とは以下で成り立っている複合の存在であるというのです。
★神的自分=本守護神
(I AM I 全ては全ての中にある 真我)
★霊的自分=正守護神
(霊魂・頭上の観照者・神の子。時空・自他を超越し、内部外部は一つと言う知覚。
思考や時空を観照する意識。空の意識。鏡の意識、今ここあるがままの意識。)
★幽界的自分=副守護神
(七つの燈台・七つのチャクラ・霊的諸体(しかし人類は未形成)、コーザル体。)
この自分が迷い転生している私・思考には知覚されない現在のパーソナリティ
ーであって、この私が記憶と同一化してしまっている私。
記憶思考ではない気づきの意識。迷える神の子羊。
ホ・オポノポノでいう表面意識の私、記憶と一体化してしまっている思考ではない私。
形成途中のサイコノエティック体の私。輪廻転生している私。
肉体・脳と結合して下記の記憶の私と完全に一体化している形成途中の私。
★個別記憶的自分=今回の記憶の私、エゴの自分、エレメンタルの私。潜在意識にある記憶の私の事。
いわゆる世界中の人類が自分自身だと実感し、全く疑うことのないこの私即ち記憶の
こと。私達は記憶の反応を自分自身だと錯覚し疑うことなく生まれ死んでいくのである。
(この思考であり記憶である私とは死後も継続し集合記憶「地球の想念」の一部となる
現在の私。想念形態の私の事。幽界まで行き続けているがしかし転生はしない。)
この自分は迷い転生している私が自分だと確信してしまっている「私という観念の記
憶」。生まれ、成長し、老い、病気になり、死んでいく肉体を自分だと思っている私。
この記憶が肉体と同一化して私は生まれそして行為し死んでいくと思っている。
私達の人生で人類の全員が自分・私と思っている私とはこの記憶のこと。この記憶の
反応のこと。
この記憶の反応を自分だと思ってしまっているのがこの私すなわち記憶なのである。
この記憶的自分は地球全体の記憶的自分を構成している一部である。人格の私である。
この記憶の私が通常の人生で喜怒哀楽、成功失敗、健康病気、敵味方を経験している私。
名前を持った私、人生を生きている人格の私である。自他に分離している私。思考自身。
★脳的自分=五感・知覚・認識・思考・感情。起こっている事に反応する条件付けられている脳の機能。
私達が自分のものだと思ってしまっている思考、記憶、頭脳、肉体即ち神の宮。
それぞれの特性や才能や障害を持って個性があり誕生し年をとり病気になり死んでいく
この肉体と偉大なる脳。カルマ・運命に基づき起こっている行為や感情出来事や衝動。
◎起こっている事=必然のカルマに基づいた出来事、行為、知覚、肉体、衝動、才能、障害
それで以上のことをふまえた上で私は以下の様に思ったりすることもあるのです。
だれが呼吸し、個性ある頭脳や身体を創造し、その頭脳や諸身体を使って
個別の人生を生きておられるのでしょうか?
誰がその特定の私として生きているのでしょうか?
私やあなたとは誰でしょうか?
それは神なのではないでしょうか。神が私であり、あなたなのではないでしょうか。
畢竟、神が私やあなたとして生き、そして演じているおられるのではありませんか。
呼吸し、脳を創造し、使い、脳の結果である私やあなたとして演じておられるのは神なのです。
誰が生まれて成長し病気になり、そして全てを失い、悲しみのなかで死んでいくのですか????
それは神でありましょう。神が悩み苦しみ愛し殺し殺され生まれそして死んでいくすべての私な
のではないでしょうか?
神が私として、あなたとして敵として味方として生きているのでありましょう。
神が迷い、神が苦しみ未熟で未形成の私、又は、正覚を得て悟った私として生きておられるのです。
神が私やあなた、そして個々人の私として、全人類として生きておられるのではありませんか?
私もあなたも昆虫も無生物も神が生きているのであり、神が一切万物の私なのです。
神が一切万物の私なのです。一切万物は神なのです。神以外に何もの存在していないのです。
神が私として苦しみ悲しみ、そして悩み恐れ欲し恐れ嫉妬し、敵として味方として、殺す者として
殺される者、搾取するものと搾取されるものとして生きておられるのでありましょう。
アセンションするあなたも、アセンションしない私も神なのです。
三界は唯心の所現と教えられています。物質界、幽界、霊界はマインドの現れです。
マインドを使って神が生きておられるのではないでしょうか?
全ての人は神であり、神以外になにかが存在していると思わせているのも神です。
全て一切の人、全て一切の万物の私は神の演技なのだとラーマクリシュナは仰います。
悟るあなたも、悟らない私も神なのです。全ては一つ、全ては神なのですと。
神が万物一切の私として演技して生きておられるのでありましょう。
神の私以外には何ものも、如何なる私も存在していないのです。
神が私であり、あなたなのです。
それをそうではないと自他を分離し、神と私を分離し、今を過去現在未来に分割する思考に身を
任せている限り
その思考と言う自他に分離し、分離して観察している私がいる限り、
分離して観察されている対象が観察者以外に知覚されている
限りはマーヤの中にいるのですと。
観察者が観察されている対象であるとき、そこには思考ではない気づきが在ると言われます。
そこには思考ではない私即ち私・記憶ではない観照者がいます。
そこには時空の制約はありません。過去現在未来という時間は思考なのですと教えられています。
私はいません。神だけがあるのです。
すなわち分離して世界や対象や自分を観察している私は思考・マインド・記憶なのです。
と。想像したり思ったりするのです。