潜在意識が鍵を握っている

2023/09/02(土)
私達が生きている理由とは何でしょうか?

それはソクラテスが言ったように「汝自身を知れ」でありましょう。

私を知り、私に帰還するためでありましょう。

では私を知るにはどうしたらよいのでしょうか?

私が私に帰還するにはどうしたらよいのでしょうか?

それは潜在意識が鍵であるように思えるのです。

その前に

先ず始めに自分を私だと思っているこの私とは私を包み隠し

ている記憶(思考の私)であって、

私ではないことを明確に自覚する必要があります。自覚でき

なければそれを信じる必要があると教えられております。

(人類が私だと思っている私とは私なのでしょうか?それともその私とは
それは私を覆い尽くしている記憶。脳が受信した記憶なのでしょうか?
その記憶が自分は私だと思っているのでしょうか?
私の中でこの思考の私が知覚し知覚されている限り私には私が知覚されません)


記憶と混濁してしまっている私とは本当は記憶ではなくて観照者であり、

魂と繋がる私であり表面意識と潜在意識で構成されている霊魂で

あることを信じる必要があります。私は肉体や記憶ではなく一霊

四魂であることを信じる必要があると教えられております。


そして、このあるがままの私を非難したり排斥したり、このある

がままの私から逃避したりしないであるがままの私をあるがままに

思考なく見なさいと教えられているのです。

このあるがままの私を非難したり逃避したりしないで、そのまま

をじっと静かに凝視している中に変革が訪れてくる・・と教え

られております。



悟られた方は言います・・




一つ、私は肉体ではありません。肉体・脳は神聖で完全なる神の宮です。


二つ、私はその肉体脳が起こしている思考や感情や行為や知覚ではありません。
  
   思考、感情、行為、知覚は脳から起っているものです。

       


三つ、その脳から起こっている思考や感情の記憶が私・人格です。

   私はその思考、感情、行為、知覚の記憶である人格の私ではありません。

   記憶の反応である人格の私は脳で発生している思考や行為を自分が思考

   している、自分が行為していると思い込んでしまっていますが、この

   人格の私は私ではありません。万物と分離してる私とは私ではありません。


四つ、私は思考、感情、行為、記憶の私ではなく、それらを観照している意識です。

      この魂の私とは記憶の反応の私を記憶に囚われずに客観的に見ている私の事です。   

   私は三層からなる魂です。私は表面意識、潜在意識、観照者である超意識

   からなる神の子です。そして私は真の私である神の子です。わたしは万物

   と一つなのです。


以上を短く纏めると次のようになります

「私は肉体ではありません。私は思考、感情、行為ではありません。

私は記憶ではありません。分離する私、ロボットの私は私ではありません。

私は全てと一つ、神の子です。」と



ですから記憶である思考が私だと思っている私、その記憶が私は肉体だと

思っているこの私は記憶の束、記憶の集積に過ぎません。AIのメモリーが

自分を私だと思っているのと同じでそれは虚構の私なのです。存在してい

ないのです。この日常生活で悩み苦しみ、嫉妬し、競争し、恐れ、支配

しようとし、自分である敵と戦っているこの私とは脳が生み出した記憶

の私、虚構の私です。


しかし

真実の私は意識であり、私は一霊四魂なのだと思われます。

この意識の私(ブッディー)が肉体に入り脳と結合したのでありましょう。


ですのでここに生きておられるのは私という観念の私、仮想の私

ではなくて神の子の私なのですと。

それは心臓を動かし、呼吸し、脳を働かせ肉体を生かしておられる

いのち!大生命の私です。大生命が神の私、本当の私なのですと。

神の子の私がここにこうして呼吸して生きておられるのです!

あなたも私も神の子なのです!

神がここに生きて息しておられるのであります!!

なんと言うことでありましょう!!かたじけなくも有り難い!!

ああ有り難い!!有り難い!!神が行為して神が見て感じておられるのです。

神が私として自我として苦しんで生きておられるのはないでしょうか。

ですので生あるものも、生なき物も一切を礼拝するのです。

善人も悪人も、殺す人も、殺される人も、搾取する人も搾取される人も

神の演技、映像に他なりません。

天使も悪魔も、天才も障害者も神が生きておられるのです。神なのですと。

全て一切が神であり、神以外には何も存在していないのです。と


実際に生きておられるのは心臓を動かしておられるいのちである私。

その私というのは、人格という記憶の私ではなくて肉体を生かして

おられる大生命、万物である神なのですと。



さて、私達とは思考ではなくて意識なのであり表面意識と潜在意識

から成り立っている意識です。そして人体の細胞のように全体と分離して

いないのですと。だれしもが重要な全体とひとつなのですと。


私は地球の全ての人であり、私は人類であり、人類は実際にはわたしなのですと。

私が憎んでいるあなたは私であり、私が殺そうとしているあなたは私なのです。

それなのに

わたしは全体と分離していると思っているのは思考、記憶なのです。

そしてその思考、記憶を使って神が私やあなたとして生きておられます。

ですので現実とは私やあなたという分離はなく神だけがあると教えられて

いるのです。


私達の潜在意識が変われば表面意識も変わります。

逆に潜在意識を変えるには表面意識からの働きかけが必要なのです。

潜在意識は記憶で汚染されているので表面意識からの記憶の浄化が必要なのですと。


潜在意識を変えるには表面意識からの潜在意識へのアプローチの仕方を知ることです。

それは絶え間なく、途切れずに思い、唱え、潜在意識に向かって

「私は在る」「愛している」「有り難う」と繰り返すことありましょう。


ニサルガダッタ・マハラジが「私は在る」と数年間、それだけに意識を

集中した結果、潜在意識を浄化しついに真我実現したように私も見習い

たいのです。


そのためには私達は正しく科学的に思考することが求められます。

最新の脳医学や物理学、素粒子理論に基づいた科学的事実を受け容れることでしょう。

この最先端の物理学の結論だけを端的に申し上げればそれはこういうことです・・

肉体は神のものです。

思考は神のものです。

記憶は神のものです。

行為は神のものです。

私・自我は神のものです。

私もあなたも神のものです。私やあなたは神の子です。
(そう見ることが出来ない私とは思考の私だからです)
(現実を直視しないで私という観念の色眼鏡で見ているのです)

従って記憶が起こしている行為や私という自我意識すら神のものです。

肉体も思考も行為も記憶も神が使って、神が演技しているものであって

映画のスクリーンに映し出されている映像の様なものであり実体のない

観念に過ぎませんと。

通常、世界中の人が自分だと信じているこの私、即ち人格の私とは

空間に映し出されているホログラフ、PCゲームの登場人物でありますと。


それを肉体と結合した私達(たましいと繋がっている私)表面意識が

自分だと錯覚してしまっているのです。

しかしながら

私達はその神によって投影されているスクリーンの登場人物では

なくて、それを客席から観照している観照者なのですと。


その観照者とは、またそれを投影している投影者・創造主でもあります。

映画のスクリーンに映し出されている万物一切を見ている観照者なのです。

ですから結論として導き出される答えは

私は意識です。意識はあなたや一切万物とも分離していません。

私は空間です。空間は遍く存在しています。

私はあなたです。

私は人類です。

私は世界です。

私は生きとし生けるものです。

私は万物一切です。

私はそれです。

私は神の子供なのです。

・・・それを途切れることなく思い唱え信じるのですと。



それをそうではない、私は肉体であり、思考であり、個性を持った私

であり、私は対象を見ている私なのだと強く思っている私とは、実は

私ではなくて記憶なのです、思考なのですと。


私は記憶ではなく、記憶という私を観照している観照者なのですと。

印度哲学用語で言えば、私はブッディーでありアハンカーラや

マナスではないのです。


・・・と思ったりするのです。



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