神が生きておられる、生きているのは神である

2023/08/13(日)
忙しい日常の仕事を離れて一人でいるときフト考えることがあります。

誰が生きているのか・・

誰の人生であるのか・・

誰が行為しているのか・・

誰が思考し、感じて、苦しんでいるのか・・

この思考し、感じて、苦しんでいる私とは誰か、この私とはどの私なのかと。


この私、それは記憶である私であることでありましょう

けれども、この私という記憶の中身である「私という観念」は

記憶の私が創ったのではなくて根源から派出している

のではありますまいか?


この記憶である私は「私という観念」を生み出した根源から

発生しているのではありますまいか。





DNAは誰が作り誰が使役しているのか?・・・

それは勿論、この記憶である私にはDNAは作れないので「至高の実在」であ

ることでありましょう。




血液は誰が作り誰が循環させているのか?・・

それは勿論私には血液を作れないので「至高の実在」大生命・根源でありまし

ょう。




呼吸は誰がしているのか、誰が肺を作り息しているのか?・・

それは勿論、私には肺を作れないし動かせないので「至高の実在」である大生

命・根源でありましょう。呼吸は大生命が呼吸しているのであります。



心臓や他の臓器や全ての細胞は神が創り神が作動させて大生命・根源・神がコ

ントロールしておられると思います。



肉体を誕生させ成長させ病気にさせ死亡させているのは誰でしょうか?

・・それは勿論私には肉体を作れないし、肉体を成長させることも肉体を維持

させることも出来ないので、それをしているのは「至高の実在」でありましょ

う。「至高の実在」・大生命・根源が肉体を誕生させ、成長させ、死亡させ、

消滅させているのでありましょう。肉体は私のものではないにも拘わらず、

肉体は私のものだという錯覚を大生命によって創られた脳が、そう間違って

実感し知覚しているのです。




では、この見る聞く感じるなどの五感はだれが作動させているのでしょう

か?・・

それは勿論私には五感という神経細胞を作ったりそれを脳と連携させられない

ので五感を生じさせ維持させているのは大生命「至高の実在」でありましょ

う。

脳細胞も脳神経もその脳から生じた私・自己も大生命によって生じている

記憶なのであります。脳の記憶がこの自己私の実体であります。

クリシュナムルティーによって「思考なく見よと言われている私」

はこの自己ではなくてこの自己を自己では無いと見ている観照者の

私なのです、この観照者の私とは魂と繋がる私であり現在意識と潜在

意識とコーザル諸体から構成されいると言われております。




ではこの脳を創造し話し、思い、行うを作動させているのは誰か?・・

それは勿論、私が脳を作ったのではなくて、この記憶こそが脳の結果であり

記憶がこの私・人格であるのであります。そしてこの私は魂と繋がる私では

ありません。私は思考と自己を観ている観照者なのです。


「至高の実在」が脳を作り、記憶を創り、記憶の私を作り、この私を維

持し作動させているということであります。



では、この脳から派生している思考や感情や才能や障害や苦しみや楽しみや

望や希望や絶望や不安などであるわたしとは誰なのか?・・


それは勿論、この私とは記憶であるので「脳を創った私」ではありません。

この脳を作り、脳が感情と思考を発生させている真の主体の私は神・大生

命・源泉でありましょう。



神が脳を生み出し、脳のその思考と感情の記憶がこの私であります。

実際にはわたし私と言いますが私は単なる記憶であり、本当の意味で

私といえるのは、脳を創り維持しそして破壊する脳の創造主、大生命の私で

あります。


この記憶の私とは「至高の実在」が生み出した「至高の実在」の演技である。

ということになりませんでしょうか?


「至高の実在」が一切万物の命あるものも命なきものの私として生きて行為し

、生まれそして死に、苦しみ楽しみ、悲しみ、恐れ、怒り、悩み、苦痛を経験

されておられます。私として生きているのは創造主であり、殺す私も殺され

る私も神なのです。敵も味方も、天使も悪魔も神なのです。生まれる私も

死ぬ私も神なのです。快楽も苦痛も希望も絶望も神が経験しておられるので

す。


神が私としてあなたとして善人として悪人として生きておられ善人や悪人と

して敵や味方として、人生の中で全ての体験をしておられると思うのです。


「至高の実在」が犬猫等あらゆるものを創造し、犬猫等あらゆるものの自己

意識を生み出し、犬猫としての人生を生きて経験されておられます。犬猫等も

人間と同じく神の演技であるといえるのではありませんか。


人間以外の動物を見てみると分かるように犬や猫は自分のからだであると思っ

ていますが、その犬猫の自己意識こそが犬猫を作った大生命の演技であるの

でありましょう。


それと同じく、大生命が肉体を創り。そしてこの私という意識を作られたので

ありましょう。そしてその大生命・神が自分の人生、自分が生きている、自分

が行為していると確信している私として苦しみや悲しみや不安や恐怖を経験

されているのではないでしょうか。



本当には行為や思考や感情は脳を通じて大生命が起こしているのに、脳からの

記憶である私は「自分が思考している」「自分が感じている」「自分が行為し

ている」「私が生きている」と信じてしまうのです。しかし魂と繋がる私

であるわたしは思考したり行為している私ではなくて観照している私です。



私達とは、大自然達と全く同じく、神・大生命の姿であり、この人間の思考や

感情と大生命が創った肉体の脳が受信した情報それ自体なのでありましょ

う。


この私は記憶であり、記憶であるわたしとは「肉体と結合した私」ではなく

(これは久保栄治には魂と繋がる私の体験がないのであくまで推論です)

「脳から生み出された記憶」であり、それら記憶の私を「至高の実在」

が生じさせ、私として体験し経験して生きておられるのではないでしょうか。


その脳が生み出した記憶の私ではなくて、初めての呼吸と一緒に生命と共に

肉体と結合した私は、いまだ赤子の状態で充分に目が開いておらず「肉体が生

み出した私」即ち記憶と一体化していると言われております。

表面意識と潜在意識からなる魂と繋がる私即ち観照者がわたしなのです。


私には一瞥体験もなく、覚醒もしていないのでこの魂と繋がる私のことに関し

てはあくまで想像にしか過ぎません。




ではこの行為は誰がしているのでありましょうか・・

行為とは筋肉組織と神経組織とあらゆる循環器系統の調和の元で成り立ってお

、行為とは、この肉体を創った大叡智・大生命が行為しておられるのです。

が、記憶の私は自分が行為していると錯覚しているのである・・ということは

最新の脳科学で証明され済みであります。

(行為が起こった直後に記憶による行為へ意志が決定されるのです)



記憶の私にとっては指一本、手一つ動かすのも大叡智、大生命がなければ動

かせないのではないでしょうか。



ではその私が行為して、私の肉体で、自分の人生であり私が生きていると錯覚

しているこの私とは誰でありましょうか・・・

それは至高の実在によって誕生し消滅する記憶であることでありましょう。


この人生は自分の人生であって、自分が生きており、この肉体は自分の肉体で

あり、この意識は自分の意識で、自分が行為しているのだとそう確信して

いる私とは実は大生命・根源が創造した脳から生じた記憶であり。「至高の実

在」によって使われている「自己という記憶・観念の私」であることありまし

ょう。その記憶の私が肉体の死後も行き続けているのです。



生きているのはこの記憶の私ではなくて「至高の実在 I AM」なのであり

人生を歩んで悩み苦しみ、自他を分離し、内部と外部を分割して見ているのは

「至高の実在」が生み出した記憶であり、「至高の実在」が記憶の私として

生きて怒り苦しみ恐れ不安で悲しみを演じ、そして体験されているのではな

いでしょうか



この自分が生きて、自分が行為して、自分の人生だとそう思っている私とは神

の生み出した思考感情の記憶なのであり、神がその私を通じて体験されている

のだと思われます。・・・その見地で見れば大悪人も大善人も敵も味方も

神の演技なのであり、殺す人も殺される人も神なのであるとおもわれます。



生きておられるのは神であり、神が生きておられるのではないでしょうか。

行為しているのは神であり、神が行為しておられるのではないでしょうか。



殺し殺される善人も悪人も騙す人も騙される人も成功者も失敗者も天才も障害

者もすべての私も、それらの私とは人類で同一内容の脳の記憶の反応であり、

記憶とは神によって使われている私という観念であるのではないか・・と

時々思ったりするのです。個人の特性も指紋の違いも神が創っているのです。


この私は私のものではなく神のロボットの私。映像の私。

この人生は私の人生ではなくて神が演じておられる神の人生。

神がこの「エゴの私」として苦しみや悲しみを経験されているのだ。



全人類のDNAを作り操作しておられる方、脳を作り維持されておられる方、

意識と個別の個性を持った私々を作り、演じておられる方が、ここで呼吸し、

細胞、分子、原子、素粒子、DNAを使って私として生きておられる。

これが正解ではないでしょうか。



「至高の実在 I AM」神が

あらゆる人間、あらゆる生物、あらゆる物質、あらゆる私とあらゆるあなた

あらゆる歴史、あらゆる記憶、あらゆる善悪、あらゆる時間と空間

あらゆる次元、あらゆる宇宙、あらゆる宇宙人・人間として生きておられ

行為し演じておられるのではないでしょうか。


そしてこの神が演じておられる私とは私という観念の記憶であることで

ありましょう。


この記憶が自分が生きていると錯覚し、

この人生は自分の人生だと信じ込み、

相手とは自分ではないと知覚し、

自分は万物と一体ではないと実感し、

肉体は神の宮なのに肉体は自分自身で、肉体は自分の所有物だと感じ、

自分が行為していると錯覚し、自分が思考していると錯覚し

自分は自由であって自分の自由意志で人生を生きているとそう感じています。

自分は自我で、自我が私だと思い込んでいる私。

常に求め、常に何かになろうとし、常に何かをせざるを得ない私。

そして「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を移してや見ん」を理解すること

もなく外部は内部であり、この記憶が知覚している外部とは、内部の記憶自体

であること「外部とは内部であること」を理解したり、知ることが出来ない

私。


意識の座、鏡に現れては消え去るこの私。この思考や感情やプライド、恐怖

心、憎悪、欲望であるそれら思考や感情という私は神が演じておられる神の演

技ではないのはありますまいか。



その私を肉体と結合した「魂と繋がる私=鏡」が記憶を自分自身だと信じ込

んでいるのでありましょう。


「観察者は観察される者ではない」と言っているその私とは記憶の私であり

魂と繋がる私(観照者の私)がその記憶の私と同一化してしまっているので

ありましょう。

・・私とはその魂と繋がる私(観照者の私)であるのに記憶の私と一体化し

てしまっているのでありましょうか??



本当の私即ち「魂と繋がる私」は未熟で目は閉じたままで記憶に覆われ、

記憶と一体化しているのだと教えられております。



私達は本当は神の赤子なのだ。だが思考と記憶・心に覆われて思考や心と自分

を勘違いしているのだとミルダッドも黒住宗忠もキリストもあらゆる悟った

方々は異口同音に言われます。



あなたは思考や私ではなくその思考や私のことを愛をもって観照している観

照者・魂と繋がる私「IAM I」なのだと言われるのです。


では、このことから私達はこの日常生活でどのように生きるべきでしょうか。

それは良い事良くないことなどの起こる事すべてに感謝し、愛を捧げ


常に何時も絶えずに内なる真の私「I AM」に思いを馳せること。


「私は世界である、世界は私である、私は人類であり、人類は私である

私は万物一切、万物一切は私」と真剣に唱え思い続けることでありましょう。


「いやいやそうではない、そんな空想を思うのではなく自分の現実を直視し

なさいよ」と語りかける私こそ、私ではない記憶の声なのです。



















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