思考は現象界を知ることが出来ると思っている・・それは思考の傲慢であり、思考の無知である。

2023/07/31(月)
思考は現象界の真実や実相を思考でもって理解出来ると錯覚している

のではないでしょうか。

質問すること自体、探求すること自体が思考なのではないでしょうか。

記憶すること、考えること、思うこと、求めること自体が思考なのでは

ありませんか。

思考は思考による探求や努力で自分自身を理解出来ると錯覚しているの

であります。

思考は思考によって私を発見し理解できると錯覚しております。



思考が理解出来て知ることが出来るのは思考だけなのであることを

思考は知りません。



思考が知った回答や事実とは思考の姿であることでしょう。

そしてそれは思考の範疇内に過ぎないことでありましょう。


思考には現象界を理解出来ないのに、思考は思考によってすべてを

理解できると錯覚しています・・それはまことに以て思考の傲慢に

他なりません。


「思考には知ることが出来ない」と言うことを知ることがスタート

地点に立つことである。と教えられております。


思考が探求して思考が理解した真実や回答や真理とは真実でもなく

真理ではなく、それらは条件付けられている思考に過ぎないことで

ありましょう。


何故ならば思考が探求し、追求し、見いだした答えとは、単なる

思考であり、その思考の探求による「真実?」とはそれは思考自

身の姿に他ならないからであります。



現象界の真の真実を知るためには、また私を知るためには、思考に

よっては現象界を理解することも、私を知ることも出来ないと

いうことを思考が知ることが必須でありましょう。


思考によっては現象界を知ることもなく、自分を知ることもなく。

思考が知る現象界とは思考自身の姿であって、それは現象界では

ないことでありましょう。思考が知覚する現象界は真実の姿ではな

いからでありましょう。


思考による探求や、思考の理論によって得た「満足した回答」

とは、それは思考の姿であって、真実や実相では全くないと

おもいます。



思考は、恐怖であり、支配欲であり、自分自身を知らない無知であり

自他を分離し、世界と私を分割し、私と万物を区別し、時間と空間の

認識形式に限定され「すべてはすべての中にある」ことを決して

知ることのない。思考は思考自らが何であるのかを知ることがない

と教えられております。


思考による思考の回答とは思考の姿であり、それは現実でも

真実でも、真理でもない。思考には現象を知ることも私を知る

事もないからなのであると。



思考による探求の答えとは、思考が満足している嘘の回答である。

思考による質問の回答とは、思考が満足する虚偽に他ならないと。


思考は自らを投影して自らと戦争を始める。自らを自他を分割して

正義と悪の戦い、神と悪魔の戦いを始めるのでありましょう。


思考は自分の事を私というが、それは私ではなく私を詐称している

思考に過ぎないことでありましょう。

思考は自分の事を私と思っているが、その私は私を覆い隠している

思考即ち「私ではない思考」に過ぎないことでありましょう。


質問すること自体が思考の働きであることを思考は知りません。

質問することは思考が起こしているのはないでしょうか。


思考による質問や探求自体それ自体が思考の動きだから、思考が

得て理解した回答とは思考であり、それはすなわち虚偽である

のではないでしょうか。


思考は自らを見る者と見られるものに分割し、自らを恐れ

矯正しようと努力しています。


思考の私は私を知らないし、私を知ることもないと云うことを知らない。

思考は私を知らないし、私を知ることはないということを知らない。


それゆえに私達は思考から静かに離れようではありませんか。思

考との同一化を停止しようではありませんか。思考による判断や

評価を停止しすべてに愛を捧げようではありませんか。


思考とは自らを見る私と見られる私に分離している恐怖であり

エゴイズムであり、暴力であることでありましょう。

思考が見る私と見られる私、そして見ている事を生み出して

おります。

この三者は思考に他ならないと言われております。


だからクリシュナムルティーは「見るものは見られるものである」

と人類に教えられたのであります。

思考の本質を見きって恐怖を見ているものは恐怖であるとき

思考を見ているものは思考であるとき、そこに「愛」が姿を

顕している。とクリシュナムルティーは教えておられます。



●内と外で起こっている事にツベコベ言わないですべてを許し

 愛し、感謝して、すべてを受け容れよう。

●内と外で起こっている事に反応している記憶から離れよう。

 思考との同一化をストップしよう。非難、判断を停止しよう。
 
 すべての内と外に起こっている事に感謝と愛を捧げよう。


即ち、

●内と外の起こっている事に対して判断したり、評価したり

 正しい正しくない、敵や味方、良い悪いと言ったり、逃げた

 り、同一化したり、戦うこと等をしている記憶と一体になる

 事をストップして内と外に起こっている思考や感情のすべて

 にありがとうございますと愛と感謝を捧げよう。

 (天使と悪魔、善と悪、正義と邪悪、敵と味方の区別は思考

 が起こしている。思考がないときそれらの区別は存在しない。

 すべてが神とみられていることだろう)


●自分に起こってきている良い事もそして良くないこともすべて一切、

 内側に起こっている恐怖や暴力、利己心、憎悪、自己関心、エゴ、欲望

 イライラと競争心、思考と感情に対して愛しているよと愛を捧げ

 感謝しようではないか。

私を詐称する記憶と一体化して混濁している状態の私は以下の私
で構成されている。

①肉体・脳(+エーテル複体)は神の宮であって私ではなく私のもので
 もない。神が使って神が生きておられる聖なるものである。

②母胎で形成され肉体と一緒に7年ごとに成長しているサイコノエティッ
 ク体(思考感情体=人格の私)は”最初の呼吸で肉体と結合した霊魂で
 ある私の(コーザル体の)サイコノエティック体”なのではない。
 神のマーヤ(根本無明)が使用(演じて)しておられる神の演技である。
 カルマという全能の意志によって定められている道を歩む記憶の私である。
 低次な現在のパーソナリティーともいう。転生している私が身に纏う
 記憶の私である。 
 
③この魂と繋がる私が私即ち私である。しかし②の記憶のロボットと一体
 化していて眠っていて目が開いていないのである。
 霊的諸体が形成されていないのである。
 私とは鏡なのに思考に覆われており内奥の輝く太陽を顕していない。
 (私達は自分ではない記憶の私を私だと錯覚してしまっている)
 私は肉体と結合した魂と繋がる私、純正サイコノエティック体、真理
 の種子である。魂のコーザル体の先端である。
 私は今のところ思考と混濁し、「神の演技の私」と一体化しているが、
 私は思考ではない。私は鏡であり透明なる意識である。記憶ではない。
 高次な現在のパーソナリティーともいう。輪廻転生している私である。

④私は肉体を私だと錯覚し、記憶・思考・行為である人格の私(記憶)
 を私だと錯覚している魂と繋がる私の観照者であり、魂の先端部分で
 ある。この私は神の子の私である。
 この私は思考ではなくて思考を思考なく観照している鏡・天照大御神
 の御分心、神の子である。
 
 この私、魂と繋がる私は七つのチャクラを有し、諸体を持ち神と繋がる魂
 である。



●私は①~④の私で構成されている。
 ①肉体・脳(エネルギー体)
 ②人格(記憶体・思考体・行為体、今回の現在のパーソナリティー)
 ③魂と繋がる私(鏡・意識・神の子・原因体の現在のパーソナリティー)
 ④魂(神の子・宇宙霊と一体)

 で構成されて混合しているが①と②は私である神の子の私を覆う我の心に
 支配されてしまっている。











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