思考が起こったら、思考から離れなさい・・ガンガジ

2023/07/19(水)
思考が起こったら、思考から離れなさい・・ガンガジ

私の感想

多分ガンガジは以下のように言っているのでありましょう。

人と会話しているとき、 
テレビを見ているとき、
運転しているとき、
仕事をしているとき、
歩いているとき、
一人でいるとき、

思考が起こったら
(・・というより人類は24時間、常に思考に支配され
ているので思考ではないときはありません。私達は思考
から自由になったことがありません。思考は24時間
に寝ても覚めても私達の意識を覆っているので、思考
が思うように「私は万物と分離している」「私はあな
たではない」「私は肉体である」と錯覚しています)

魂の私の自由意志を使って思考ではなくてその思考

が映しだされている鏡を見ようとしなさい!

たとえ思考に塗れて、思考と混濁していても私達自身で

ある意識を使用して、私達である意識を意識し、鏡である

私達のさらに奥にある光を見なさい!見れなければ信じな

さい!信じられなければ想像しなさい!」。

思考ではなくて意識である私、鏡である魂の私を想起しなさい。

思考は相手とは自分の姿なのに相手のことを非難しています。

思考は内部と外部の必然的に起こっている事に対して常に反

応しています。

私を詐称する思考は私ではありません。意識である鏡が私です。

私、魂と繋がる私のこの表面意識は私の内奥である魂・観照者

に注意を注ぐべきです。

その思考と決して一体化したり、思考と同一化したり、

思考に巻き込まれたりしないで

自分自身で在る鏡に、即ち思考を写しだしている意識

スクリーンのほうへ注意を向けなさいと。

同じくラーマクリシュナは教えておられます。
「人類は悲しいかな、肛門と性器と臍の領域に満足して
暮らしていて(最下層のチャクラにいて)
ハートや喉や眉間の領域が在ることさえ知らないでいる」と


私達は自分の中に高次のチャクラがあることに気がつきません。

思考が顔を出てきたら、思考ではなくて私自身の方に即ち表面
意識・鏡・意識の座の方に注意を向けなさい。

私達は自分の事を思考であり、欲望であるとそう思っていますが
それは思考がそう思っているのであり、私なのではありません。
病気で苦しみ、喘いでいるのは肉体であり、神の宮であり、こ
の肉体に入った私自身なのではありません。

私は肉体であり、私が思考していると思うことは思考の捕虜
になる事です。思考である記憶が私は肉体だと思っているの
です。思考しているのは思考であり。私は意識であり思考し
ていないのです。

私を覆い包んでいるこの思考とその思考の観察者という
のは同じ記憶です。記憶が自分自身を主体と対象に分割し
て知覚認識しているのです。
記憶にではなく、真実の私、魂と繋がる私のほうへと注
意を向けなさい。

私であり魂で有る観照者の私に注意を向けなさい。

「見るものは見られるものである」
「観察者は観察されるものである」と言っている意識
の方へ注意を向けなさい。鏡に注意を向けなさい。
私を生かし動かしている大叡智に注意を向けなさい。

必然性に基づいて起こっている外部と内部の出来事に
対して反応しているのは私ではなくて記憶なのです。
私は観照者であり、記憶を観照している意識です。

記憶・思考・感情・限定されている知覚に巻き込まれ
ないで、そこから離れなさい、思考から脱出しなさい。

その記憶を見ている私とは記憶であって私ではありま
せん。

私は魂と繋がる私であり、観照者という天照大御神の
御分心である鏡なのです。意識なのです。

思考が見たり話したり考えたり行為しているのです。
見たり話したり考えたり行為しているのは思考です。
私でないものへ注意を向けないで注意を私自身へと、
向けなさい。魂と繋がる私へと向けなさい。

さらにラーマクリシュナは言います

肉体は神のものです。肉体は私のものではありません。
神が肉体を誕生させ、成長させ、老化させ、死亡させています。
神が肉体を動かし、生かし、維持し、病気にさせ、健康にさせています。

私は神のものです。私は私のものではありません。私はいないのです。
私が生きているのではなくて、神が私として生きておられるのです。

視る、聞く、話す、感じる、考える、行為するなどの全ては
神がしておられるのです。
苦しむのも、喜ぶのも、悩むのも、満足するのも神がしてい
るのです。
全人類の個々人の全員が神のものです。神が人として生き
ておられます。

私は神のものであり、神の演技です。
私はおりません。私とは嘘なのです、錯覚なのです。
本当は神が私として生きて行為しておられるのです。

私とは神の演技なのです。神が私として生きて行為しておられます。

全ての人の私がいるのではなくて神がここにおられるのです。
神が私として生きておられるのです。
神が私として死んでおられるのです。
神が私として演じておられるのです。
神が私として思考しておられるのです。
神が私として苦しんでおられるのです。
神が私として行為しておられるのです。
神が私として経験しておられるのです。
神が私として演じておられるのです。

神が全人類の私を使って行為しておられるのです。

神が全人類の私を使って思考し欲し、感じておられるのです。

私が行為しているのではなく、神が行為しておられるのです。
私が思考しているのではなく神が思考しておられるのです。
私が生きているのではなく神が生きておられるのです。

・・・と。


勿論この久保栄治は、ガンガジや悟った方々を理解
していません。しかしながら、この神の迷える子羊は
悟った方々の教えに耳を傾け、学び、思考を超えた
真理を理解しようとすることは思考レベルであっても
正しい学びの道であるように思えるのです。
正しく思考することが正しく理解する道への一つの
方法であると確信しております。








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