実際には、個人というものは存在しない。
ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一
化するだけだ。・・ニサルガダッタ・マハラジ
あなたのマインドがどのように存在のなかに現れたか、
どのように作用するかを見守りなさい。
マインドを見守るにつれて、あなたは見守る人として
のあなた自身を発見する。
あなたが動じることなく、ただ見守っているとき、あな
たは見守る人の背後にある光としてのあなた自身を
見いだすだろう。・・ニサルガダッタ・マハラジ
私たちが目覚めるのは私たちが眠っているからだ。
私たちは本当の目覚めの状態に目覚めるのではない。
目覚めの状態のなかに、無知によって世界は出現し、
人を目覚めた夢の世界に連れ出す。
眠りも目覚めも、ともに正しい名称ではない。
私たちは夢を見ているだけなのだ。
真実の目覚め、真実の眠りはジニャーニだけが知っている。
私たちは目覚めているという夢を見ている。
私たちは眠っているという夢を見ている。
三つの状態(夢見・熟睡・目覚めた日中)は、ただの
異なった種類の夢の状態だ。
すべてを夢として見なすことは、あなたを解放する。
夢に現実性を与えるかぎり、あなたはそれらの奴隷だ。
ある特定のものとして生まれたと想像することで、あな
たは特定のものとしてのあることの奴隷になってしまう。
あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語を
もつ者として想像することは奴隷状態の本質なのだ。
実際には、私たちに物語はない。
私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。
すべてを夢と見て、動じずにいなさい。
・・ニサルガダッタ・マハラジ
あなたはつねに不死不生であり、体験者を超えていると
いうことを覚えておきなさい・・ニサルガダッタ・マハラジ
私の感想
正直言って、私のレベルではこのニサルガダッタ・マハラジが
何を言っているのかよく分からないのであるが、
推測するに
「私は外側に起こっている病気・健康・成功・失敗・肉体や、
内側に起こっている思考・感情・欲望・恐怖・不安・暴力
に対して反応している記憶(観察者・人格)ではなくて
その起こっている出来事に反応している記憶・観察者(思考)
を思考なく観照している観照者である。」
と言っておられるのであろうか。
私は「起こっている恐怖」を「観察している観察者という記憶
の反応」ではなく、即ちその起こっている恐怖を観察して
いる私ではなくて、その恐怖の観察者を思考なく観照している
観照者が私である。ということであろう。
思考なく「記憶という観察者」を見ているのが私であり
魂である私(鏡・意識の座)なのだと言うことなのであろうか。
私とは起こっている出来事に対して反応している観察者
(記憶・思考)ではなくて、その起こっていることに
反応している観察者(記憶の反応)を思考なく観照している
観照者であると言っておられるのであろうか。