ラーマクリシュナは以下の様に述べています。
「この「私」・自我とは、あのお方(神)自身が置いておかれた
のです。この自我・私とは、あのお方の遊び、あのお方の遊技です。」
「私という意識があるあいだは、どうしても相対界(転変の世界)
を棄てることは出来ません。これではない、これではない、と否
定を重ね、瞑想のヨーガによって、人は実体・ブラフマンに到達
することが出来るのです」
「世界は、あのお方そのもので満ちあふれています。」
「見るもののすべては、あのお方自身がなっておられます。」
「その中のどれを捨て、どれを受け入れたらいいのかと、決
めることなどは出来ません。」
「あのお方(神)ご自身がすべてなのです。」
「神は自らの生きもの、宇宙、それらすべてになられたのです。」
「完全なる神の叡智を持つようになれば、そのときには、その
ように知り、認識します。
あのお方が、思考機能、統覚機能、(器官を伴った)身体-
二十四の宇宙原理すべてになっておられるのです。」
「しかしながら肉体意識(私は肉体だという実感)が消えな
い限りは、この究極の真理を知ることは出来ません。」
「神を見ない限りは、我執はなくなりません、もし誰かが自
我意識がなくなっていたのなら、その人は間違いなく見神し
たのです。」
「(自我意識がなくなっているのなら)神のみが行為者であ
って全ての全ては非行為者であることを知ります・・しかし
このことは、我の心の感覚器官によっては知ることは出来ま
せん。」
「私、私のもの、私のからだ・・それが無知です。」
「私は行為者である。私は妻、夫、子供、財産、名声など、
私には名誉それらの全てがあるのだ、というそのような感
情は我の心即ち無知でなければ生じません。」
「私が行為しているのではない、行為は起こっている、
という明智(神の目から見た知覚認識)は無知(我の心)
という束縛から解放された覚者にとっての共通した認識です。」
「しかしこのことは、感覚器官や現在の我の心によっては
知ることは出来ません。世俗の執着のないその清浄なる心
によってしか(その真実)を知ることは出来ません。」
「神を見ない間はその我の心・我執はなくなりません」
「私、私のもの、私の肉体、私の心、それが我の心・無知
(行為者)なのです」
「無知から解放されておらず悟ってもいないのに、私は行為
していない、私は思考していないと言うのならば、その人は
嘘をついているのです」
「(肉体は自分の肉体であり自分が行為しているという実感
がある限りは)その人・個我は自分の行為に責任がありま
す(その行為の結果を引き受けることになります。従って
正しい行為や正しい思考が求められます)」
注:その悟った方々の神の目には一切衆生悉有仏性と見え
ていることでありましょう。
その目には愛に値しないものは、何一つ存在しておらず、全て
は現象の奥にある実相(神の子)を顕しており、光そのもの、
光と愛に満たされていることでありましょう。
しかしこの私達の目は私という自己・私という感覚が覆い被
さっているので実相を見ることはなく、無知から解放されて
おらず、事実を知覚していません。自他を分離して見ているので
相手とは自分を映している鏡だとは決して思う事はありません。
私達は私という観念の記憶に占領されているので、この記憶が思
うように「私が行為している」「私が思考している」「私が選択
している」と記憶が思うように思っており、口では「私は行為して
いない」「私は記憶ではなく真我だ」と言っていても、それを言っ
ている私とは記憶の反応であることを自覚していません。
私達は常に糞(お金)と偽のシャクティーの中で暮らしています。
ラーマクリシュナは私・自己という私意識がある限りは「行為は
起こっている」「思考は起こっている」ということを知ることは
ないと言っています。私という自己意識があるのに行為は起こっ
ていると嘘をつくことは、最悪のカルマになると言っています。
見えてもおらず見てもいないのに、即ちこの私は神の目ではないのに
「私は行為していない」「私は思考していない」「全ては完全完璧」
だと言うことは嘘をついています。正しくは「彼岸から見た場合には
全ては完全完璧ということです」であります。
目の前の相手を自分ではないと分離して知覚している私自己意識
が残っている限りは、ラーマクリシュナ達の「行為していない」とい
う知覚はありません。私達に出来る事はそのことを信じることだけ
なのです。それなのに自分の言葉としてその彼岸からの言葉を話す
ことは嘘をついていることになります。
その嘘をついている私のその私とは、神のマーヤ・私という観念であ
り、記憶であり、即ちこの私人格なのでありましょう。そしてその私
という観念を使って神が現象界を演じておられる(神聖なるマーヤ)
と覚者達は教えておられるのでありましょう。
ラーマクリシュナの教えから推測すると
細胞を分裂させ、原子配列をかくもあらしめ、素粒子を生み出し
宇宙を運行しているその大叡智が私として演じておられます。
神聖なるマーヤが思考と感情とこの私自我を生み出し行為して
おられるのだと彼岸から述べておられます。
ですので、このラーマクリシュナの観点から導き出せる現在の私達
にとっての正しい態度とは何でありましょうか?
その前に肉体とは誰のものでありましょうか?誰がこの素晴らしい
肉体を創り、誰が維持し、誰が病気になり、誰が死ぬのでしょうか?
それはこの大宇宙を創造し一瞬の狂いもなく運行しておられる
生き通しの大生命・創造主であるお方でありましょう。
私も私の肉体も私のものではなくて神のものですと。
私の記憶や思考や感情や個人と言う人類ひとりひとりの個別
性があり、独自の個性のこの私とは誰のものでありましょうか?
脳や霊的諸体もまた個人の特性を持つ私も私のものではなく、
その脳や霊的諸体を創造してそれを通じて生きておられる方が
記憶や脳や思考や感情や肉体を創造し維持されて個別の私とし
て生きていると仰います。全人類は神が生きておられるのだと。
では行為は誰のものでありましょうか?行為もこの複雑な身体の
連動作用を行っておられる神のものです。神が行為しておられます。
私ではありません。(しかし他と分離している私という感覚が有る
限りは私が行為しているのでありカルマの輪、バドルソドルに縛られます)
ではこの私は誰のものでありましょうか?誰なのでありましょう?
私は「私が私が」と思考し、行為していると思っていますが、その
私とは記憶に他なりません、この私は私のものではありません。
この私の恐怖も錯覚も、行為も虚偽の知覚も私のものではありません。
この私こそ虚偽なのですから。
記憶の私は神が創造し、神がお使いになられているロボットなのですと。
魂の私がこの記憶というロボットの私と一体化しているのですと。
神がこの私を使って行為し、思考し、感情し、悩み苦しんでいるのですと。
神ご自身が私という観念を使ってロボットとなって、そのロボットが
「私が行為し、私は苦しみ、私とあなたは別人で、私は万物と分離して
いる、内部は外部ではない」と錯覚しているのですと言われます。
ではこのロボットの私と一体化してしまっている魂と繋がる私は
何をどう生きれば良いのでしょうか?
私が思うには、それは起っている病気や健康や行為や幸運や不運や
悪いことや良い事、恐ろしいことと楽しいこと、成功と失敗、思考や感情
生と死、裕福と貧困などの全てを受け容れ、それに感謝と愛を
捧げることなのではないでしょうか。自分は無限なる空であることを信
じることなのではないでしょうか。
また
内側に起こる不安や安らぎ、怒りと喜び、痛みと快楽、暴力と
優しさ、絶望と希望、傲慢と平等などの全てに対して感謝と愛を
捧げることなのではないでしょうか。
それは
自分の心の中に沸き起こる欲望や嫉妬心、恐怖や不安、行為、
自我のプライドに対して愛している!ありがとうございます!!
とただひたすら一心にそれらの内と外に沸き起こる思考と感
情に愛と感謝を捧げ、抱きしめることなのでありましょう!!
何故ならば、内と外の良い事も悪いことも一切が神の演技だ
からです。良い想念にも悪い想念に対して等しく感謝と愛を
捧げることなのでしょう。病気や健康、良い行為や悪い行為に対
しても感謝を捧げることなのでありましょう。
私を詐称する記憶の私は存在しておらず神が生きて、行
為し、思考しておられるのですから。
クリシュナムルティーは見るものは見られるものであり
私が恐怖を見ているのではなくて、見ている私が恐怖であ
り、これを本当に直覚したとき(これは主体と客体が合一
した瞬間であります)そこに新しく本来在った魂と繋がる私
(観照者・魂)が姿を顕すと教えておられます。
その正覚時に、最大の奇跡が起こると云っています。その時
には恐怖とは神であり、その「見るものは見られるもので
ある」の意識状態の、そのとき根源的恐怖の奥に光り輝く神が
即ち愛が姿を顕すのです・・・と言われているように
思われます。