その思考の努力がまったく無い状態から、心の全的な変化が 生じるのです。 ・・・クリシュナムルティー

2023/07/03(月)

その思考の努力がまったく無い状態から、心の全的な変化が

生じるのです。

・・・クリシュナムルティー

 

以下のクリシュナムルティーの言葉は編集されています。

また括弧の注は私「目の開いていない久保栄治」の個人的な意

見でありますので、読む皆さまの自己責任でお読みください。

 

自分の心の中にあるこれら問題(注:恐怖、自尊心、

嫉妬心、暴力、愛のなさ、利己主義、自我、欲望などであり自

他や内部と外部を分離して知覚している私という思考、感情)

に対して

 

私達が問題を解決しようとすることなく

(注:解決しようとしている者が問題である思考自体であるから)

 

また私達が答えを見つけようとすることなく

(注:思考は知識や情報で問題解決が出来ると思い込んでいて

問題を作り出し且つその答えを求めている)

 

 

問題それ自体を調べることが出来るのなら

(注:誰が問題だと思っているのか?誰が考えているのか?

それは記憶の私なのではないか。その私は恐怖を見ている

観察者であり、私が恐怖であることを理解することが出来ない。)

 

答えは問題そのものの中にあります。

(注:問題だと思っているものは記憶であり、その記憶が問題

そのものであると言うことか?)



この私達の姿を私達自身が見て

 

私達がそれ(問題)を経験し、その経験の中で完全に

その問題(注:恐怖、葛藤、分離、自我等)に気づいており、

 

それに対して思考は(注:思考そのものが問題であるということ)

何も出来ないことを知って(注:観察者は観察されるもので

あるということ、見るものは見られるものであるということを理解して)


その問題(注:恐怖・自我・分離等)

に対して静かであるとき(注:思考が沈黙しているとき)

 

若しくは、その問題(注:恐怖・自我・分離等)に対する

どんな活動も恐怖・自我であることを知ってその


問題に対して静かであるとき

(注:恐怖・思考・自我・分離等に対して沈黙の中でそれを

凝視して何もしないとき)

 

それは即ち

自分の中にあるこの欲望、恐怖、暴力、自我等に

たいしてのどんな活動もなしに完全に動かないで

いるときのことですが。

(注:問題という恐怖・思考・自我・分離等に対して思考を動

かさず凝視しているとき)



そのときに

心がもはや欲望や恐怖や自我によって穢されておらず

 

全ての問題がその心と関係するとき

(注:私が恐怖を見ているのではなく、見ている私が恐怖であるこ

とを理解したとき、「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を移して

や見ん」、「見るものは見られるものである」を理解したとき)

 

 

その心自体が実在であることでしょう。

(注:心本来の鏡の姿がそこに顕現しているということ)

 

 

そして、そのとき

その心とは私達が持っているものとしての心ではなくて

(注:恐怖・思考・自我・分離・などという我の心ではなくて)

完全に自己がなく、そして欲望のない心なのです。

(注:神の子としての世界は私である普遍的主体のマインド・心、黒

住宗忠のいう天照大御神の御分心)

 

 

これに反して、自分自身から若しくは自分の条件付け

から解放されようとして為されたどんな行為、努力も

更なる条件付けを生み出す結果となります。

(注:その努力の行為とは思考が自らから解放されたいとしている思考の

運動だということ)

 

私達は自分の心が全面的に混乱しており(注:私達であ

る新たに生まれた魂の表面意識が思考により混濁してしまっているので)


それに対し、

自分の心を改善するためのどんな努力も、どんな方法も

その混乱の領域内にあることを理解しなければなり

ません。

 

あなたは自分が全く全面的に混乱していることを知

っています。


従ってそのときには、思考の全ての停止があるのです。

(注:表面意識という魂の心を覆う思考が、思考自らが自らを知っ

て沈黙すると言うことか)

 

思考には自由はありません。

思考の自由などというものはないのです。

 

思考から自由になるという思考の欲望がないとき

 

または、思考から自由になるための思考による努力

がないとき

 

 

その思考の努力がまったく無い状態から心の全的な

変化が生じるのです。

(注:恐怖を恐怖と知覚認識して恐怖を恐れているのは、恐怖である思考

であり、その思考が自他を分離し、内部世界と外部世界を分割して見てい

る記憶であるということ。この記憶即ち思考が自らを知って沈黙したとき、

恐怖を見て恐れていた者は恐怖である私であることを理解したとき、そこ

に思考が覆っていた自他の分離がなく内部と外部の分離がない「世界は私

である」という意識が顕現していると言うことだろうか)











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