私は誰か・・ラマナ・マハリシ

2023/06/12(月)
私は誰か・・・ラマナ・マハリシ

私の感想

要約ですがクリシュナムルティーは以下の様に
私の終焉の後に顕れる実在に関して語っています。
このラマナ・マハリシの問いの答えに思えるから
です。
紹介します。

人は関係の中で自分の実態に気がつくことが
出来ます。

そこには全ての自己の反応が表れていて
心は常に確かさや安定、安全を求めて運動し
ている様を見ることでしょう。

人はこの分離を観察することが出来ます。

それが私達の条件付けであり、それが恐怖
の源なのです。

そしてこの関係性の中で

どのように私が生まれ働いているのかを
見ることです。

分離を生みだすのは私なのです。

このことに気がつくことは、それを理解す
ることであり

そして、その理解がそれを終わらせます。


心はその虚しさ(※根源的恐怖)の感覚を
じっと見つめなければなりません。

自分自身である、この根源的な恐怖、この
底なしの恐怖を何の非難もしないで、注意
深く見なければなりません。
逃げようとしている私を見なければなりま
せん。


心それ自身がその虚しさ(※恐怖・暴力・
不安)なのであり、心はその虚しさそれ
自身から分離できないということを理解
します。


観察者が観察されるものであるとき、分離、
恐怖、私は終わります。

そこには始めから在ったもの(※愛、実相)
が姿を顕すのです。


非難なしに、結果を望むことなしに、この
事実に、静かに気がついていること・・そ
れが真理を露わにします。

・・そしてそれが自由(※涅槃)なのです。


恐怖を理解する中に自由があります。

恐怖を無くそうとすることの中にではな
くて。


あるがままのものを直視することが、その
ものを終わらせます。

あなたは束の間の記憶と深まりゆく寂しさ
に過ぎないあるがままの自己と直面するこ
とになります。

そのあるがままを逃避するのではなくて、
それを見つめ、
それと向き合わなければなりません。


そのようにして既知なるものの死である
この残骸から新しい運動(※秩序、高次
知覚など)が生まれます。
愛がこの見る力なのです。


この既知なるあるがまま(※私・恐怖・
分離)を理解する為にはあるがままを愛
さねばなりません。




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