思考なく見よ・・クリシュナムルティー

2023/06/09(金)
思考なく見よ・・クリシュナムルティー

私の感想

思考なく見よとは?
クリシュナムルティーは何を示しておられるのだろ
うか?

わたしが推測するに・・
私達は肉体でもなく、また頭脳でもなく・・
私達は思考ではなく、意識なのであり
本来は「神の子」であるのに、
私達は思考に染まり思考に塗れてしまっているので
私達は自分を思考だと思い込んでいて自分自身を知
ることがありません。

ここでいう私達とは魂と繋がるこの私のことであります。

肉体と結合した「魂と繋がる私達」は自分が記憶と混合状
態にあって思考によって穢れていることを理解していません。
自分は肉体であり、自分は頭脳の結果だと信じています。
従って目の前の人とは自分を映し出していて、自分の姿で
あることをけっして理解することがありません。

しかし
この完璧な神の宮である肉体とはDNAに従って思
考し、感じ、行為している「全能の意志カルマ」の
の創造物であり、神が生きておられる「魂の私」の
容れ物であるのです。

更にこの肉体を私だと錯覚しているこの人格の私とは、
死後には違う次元で生きる記憶体(今生での人格)で
あることでありましょうし

この記憶の私は自分が思考し行為していると錯覚し、
反応していますが、この私は自分がの演技で
あること理解しません。それは私達の諸体の目が覚
醒していないからです。

そして更にこの「人格の私」を自分だと思い違いしている
のが最初の呼吸と共に肉体に入った「魂と繋がる私」で
あり、真我と繋がっていると教えられています。
それがこの私、私達です。
この「魂と繋がる私」が輪廻している私、即ち思考に
染まっているこの今現在の私達なのではないでしょうか。

単純に私と言いましても、この肉体の私、記憶の私、そし
て「魂と繋がる私」の三重の私が表面意識に混濁して入れ替わ
り立ち替わり出現しています。そして「未熟な魂と繋がる私
である表面意識」は脳と結合しているので、脳が眠るときに
表面意識も一緒に眠ってしまうのです。思考によって占領
されて自由ではないので決して「見るものは見られるもので
ある」こと、私の目の前の敵や悪魔とは自分自身の姿である
ことを理解しません。それはこの目が意識ではなくて思考
である証拠なのです。

この魂と繋がる私の態度が最も問題なのです。

それは即ち「記憶という人格の私」への態度のことであ
ります。
さらに「必然性」によってに起こっているDNA即
行為や思考に対する「魂と繋がる私」の態度が最重要と
なってくるのです。

私達の表面意識とはこの三つの私の混合状態なのです。

先ず最初にこの点をハッキリさせる必要があります。
再度確認しますとそれは

①魂と繋がる私・転生している私、鏡としての表面意識。
②今生での記憶としての私(死後も生き残っている
 人格の私)
③条件付けられている脳が受信している起こって
 る思考、感情、欲望、行為です。

①である表面意識の私即ち鏡が②によって穢れ混濁
 しているのです。①は必然性によって起こってい
 ることに完全に一体化して自由ではないのです。

それなので
クリシュナムルティーは「汝自身を知れ」と言うの
であります。あなたは肉体ではなく、更に肉体を私
だと思っている思考でもなく、その思考を成立させ
ているスクリーン・目即ち表面意識であるから思考
ではなくてその意識で見なさいと。鏡である自分自
身の内奥である「意識」を信じて意識・自分自身に
留意しなさいと。

鏡に映る記憶から見るのではなくて鏡である意識か
ら見なさいと。

「見るものは見られるものである」ので意識をみている
ものは意識であり、思考を見ているものは思考なの
ですと。

自分自身である意識で自分自身である鏡に映る自分の姿
を見なさいと言っておられるのでありましょう。

思考を見るのではなくて思考している私を見なさい。
「見ている私は見られている相手である」ことを見
なさい。
思考は見ている私と見られている私を分割しています。
思考を見るのではなく意識を見なさいと。
思考で見るのではなくて、意識で見なさいと。
現象を見るのではなくて実相である鏡を見なさいと。
そして
思考ではなくて「自分自身である意識」を意識で見なさ
と教えておられるのでありましょう。

表面意識の私達とは上記の三つの私が「混合した意識」
の私であり、魂からの意識と記憶として反応と、脳
のDNAが起こしている思考感情で坩堝状態なのです。

ラーマクリシュナはこの脳からの思考の記憶を人格の
私、神の演技と仰っておられるのだと思います。
ラーマクリシュナは魂と繋がる私に対して内を見なさい、
神が演じておられる「演じられている私・記憶という
人格の私」ではなくて、「魂の私」「演じている神」
「本当の私」を見なさいと教えておられるのであり
ましょう。


では私達意識を汚染してしまっている思考とは何か?
何のことなのでありましょうか?

この思考の事をクリシュナムルティーは虚偽である
と言っています。「虚偽を虚偽と見よ」と言われます。

この思考とは全人類が等しく同じものであり、等しく
条件付けられている脳が受信し発信しているもので
あり、それは記憶である、ということでありましょう。

ではその思考であり記憶であるものの特徴とは何であ
りましょうか?
それは私を騙る私ではない私・人格です。
それは私を覆い包んでいる私であり、真の私を覆う私
のことでありましょう。条件付けられている脳から
形成された記憶なのです。

この記憶の私即ち思考とは
以下の三つの特徴があるのだと思われます。


その思考とは主に三つの特徴がある。

①思考自身は自分を知らない。自分は私で肉体だと
 思っている。私は他人とは異なっていると思って
 いる。
 思考は条件付けられている脳が受信し脳から発信
 している私という観念であります。

 思考は個人ではなく個人だと思っている全地球で
 一つの同じ内容の記憶の反応であります。

 思考は記憶であり、DNAと同じように根源から発
 出している全人類で全く同一のものであるのに、思
 考は肉体と同一化しているので自分は肉体であ
 る」と錯覚し「私は他者と異なる」「私は万物と
 は別だ」と錯覚している自分自身を知らない無知
 のことであります。エゴ、自我、虚偽であります。
 思考とは自分は全地球人類で同じ一つの記憶なのに
 自分を肉体と一体化しているので個人だと錯覚して
 います。
 それは身体の夫々の細胞が自分は個人で身体ではない
 と錯覚するようなもので、それは癌となるのです。
 相手とは自分自身であることを知らないので思考は
 自分を他者として知覚します。自分が知覚認識して
 いる他者とは自分自身の姿であるのに、それを私で
 はない他者だと知覚しています。自分と他者は同一
 の私という観念の記憶であるのに、自他を分離して
 知覚しているので、他者のことを非難し、敵であり
 利用しようと思っています。
 

②思考は自分自身を分離し、自分を分割し対象化する。
 
 思考は見る私は見られている私であることを理解し
 ません。自分は万物と同じ神聖なる被創造物であ
 ることを自覚しません。
 魂と共に新生児の肉体に結合した思考は脳に縛ら
 れているので、(その結合は各体によって異なる)
 条件付けられている脳の知覚認識を自分の知覚
 認識だと錯覚し、自分が見ている世界や相手や
 他人の姿とは,それを見ている思考自身の姿である
 ことを全く知覚認識できません。

 常に自分に怯え、安らぐ事なく世界や他人を判断
 し非難し、恐怖し、競争し、そして相手を支配しコ
 ントロールして変えようとするのです。
 思考は世界や相手とは自分自身であることを理解
 することが出来ないのです。
 本当は「見るものは見られるものである」であ
 り、私が知覚認識している対象・相手とは自分
 自身であり、知覚している外部や世界とは自分
 の内部であることが思考には分からないので常
 に争い、競争し、嫉妬し、支配しようとし戦争
 は絶えることがありません。その支配し競争し、
 殺し合っている相手は同じ自分自身であること
 を決して理解出来ないのです。

 
③思考はエゴ、恐怖であり、支配し、至ろう、な
 ろうとする。

 思考自身が根源である神「至高なる実在」から
 発出しているものであることを思考は知らない
 無知であるので、その思考の本質は恐怖、不安、
 生老病死、エゴ、嫉妬、プライド、利己心、欲望
 などであり、あるがままをあるがままに受け入れ
 ようとはしません。常に起こっている出来事に干渉
 し、変えよう、進歩し、良くなろう、と努力して
 獲得し、改革し、至ろう、神になろうとして自分
 を拡大しようとしますが、本当の私は既に無限に
 拡がっている意識であり、それがわたしである意
 識であることを知らないでおります。

ではこの思考を思考なく見るとはどういうことでありま
しょうか?

クリシュナムルティーは三つのステップを示しています。

①虚偽を虚偽と見ること
②虚偽の中に真理を見ること
③真理を真理と見ること


①の虚偽を虚偽と見ることとは
 虚偽を虚偽と見ていることとは、既に否定的に意識
 に接近していることであり、それは虚偽を見ている
 もの、即ち虚偽ではない意識が、即ち真理がそこに
 働き出していることを指し示しております。
 思考だけであるなら、そもそもそれを思考だと思う
 こともありませんし。思考を思考とみることは出来な
 い事であります。私達は思考によって穢れまみれてい
 ても思考ではなくて意識なのでありますから、まず始
 めに私達意識が一体化してしまっている思考に気がつ
 く必要があります。 
 ラーマクリシュナが「神が自我を使って、神が生きて
 演技しておられます」と教えているように、私達は
 この自我記憶を使って生きておられるのは神である
 ことを知る為に固く意識である自分自身を信じるこ
 とであります。
 神がDNAを使い、思考と感情と行為を使って肉体と
 脳を生きておられるのであります。
 従ってこの記憶の私即ち人格の私とは神の演技なので
 ありましょう。
 神がこの記憶である人格の私を使って思考し思い
 行為し生きておられます。
 仏教的に言えば私とは非実在なのでありましょう。私
 は神の演技なのであります。

 この肉体に入った魂の私はこの神の演技の私を私だと
 錯覚しているのです。
 従って私達は演技されている自我ではなく、自我を
 演技している神を凝視すべきであります。神が人と
 し演じておられるのであり、その神を凝視すべきなの
 であります。
 何故ならば私達は神の演技ではなくて演じている神の
 子供だからであります。

 自分も含めて全ての人に神を発見出来る様にこの思考
 によって混濁している目を浄化すべきなのであります。
 
 演じている映像の人ではなくて、それを演じている
 全ての人々である神を固く信じて人々を礼拝するの
 です。

②虚偽の中に真理を見ることとは何だろうか?

 この思考に塗れ、善悪の認識を強いられ、他人とは自分の
 姿であることを知ることがない記憶・人格・エゴの姿を
 透かして演技しておられる神の姿をハッキリと知覚する
 ことであります。一切万物にハッキリと神を知覚すること。
 DNAを使い生命として生きておられる神を実際に私の中
 に発見すること。意識を実際に知覚認識することでありま
 しょう。これは現在の久保栄治の段階ではありません。私
 は未だ出発点にも至っていないのですから。

③真理を真理と見ること
 これには私はタッチできません。わたしは全くこの段階で
 はないからであります。これは彼岸の菩薩の目のことです。
 この段階から多くの聖者や賢者や悟った方々は人類に対し
 て語りかけておられます。


ではこの思考を浄化する為の実践すべき方法がある
のでしょうか?

ある・・あるのであります。

それは「自己想起」であります。

この現在生きている「神の子」の私自身を信じて
この内なる「神の子の私」に意識の焦点を合わせ
ることです。悩み苦しみ恐怖に慄く私ではなくて
「神の子の私」を信じて、その私に意識の焦点を
合わせるのです。

絶えず絶え間なく本当の自己を思い出し、真の自分
自身を想像しそして信じて自己想起するのであります。
自分とは、肉体や思考ではなくて意識で在る事を想
起するのです。
自分は思考ではなく無限に拡がっている至高の愛の
意識で在る事を信じ確信し、その愛である私を意識
するのであります。

勿論この場合の自己想起している私自己とは、如何に
混濁し、罪穢れにまみれていようとも神の子の私のこ
とであることを信じるのです。
思考を働かせて質問したりしてはなりません。
最高度の知性は思考ではなくて確信であることを理解
しなければなりません。
この私は黒住宗忠のいう天照大御神の御分心のことで
あり神の子としての、この現在の私自身・自己であり
ます。

ここでこの自己想起や念仏はどの位、何時唱えれば良い
のか?
ということでありますが、それは可能な限り、いつでも
何処でも48時間であります。
というのは思考からの記憶の反応は一時も休むことはなく
私達を完全に支配しているので、私達は仕事をしていても、
話をしていても、テレビを見ていても、歩いていても寝て
いても、食事をしているときも、夢を見ているときも、思
考に支配されており、記憶は虚偽のエレメンタルを生み出
し続けており、身体や環境に害悪を与え続け流し続けてい
ます。ですから私達は如何なる時もこの念仏を中止しては
ならないのです。

では、この念仏を唱えている神の子として私とは何だろうか?

それはクリシュナムルティーが言うように「思考なく
見つめている目・意識」のことであり、愛と慈悲で
ありましょう。

それは思考ではなく思考を支え、現象を支えている
至高なる意識、空なる意識であるとも言われており
ます。

その空なる意識とは、神の意識であるから「愛」で
あることでありましょう。

従って自己想起とは一切万物、全てのすべて、ある
がままの起こっている、起こるであろう内と外の全
てに私を見ること。一切の私を愛すること。感謝す
ることであります。

生きていると生きていないを問わず、善悪を問わず、
万象万物を愛すること。「愛している」と念昌し、
念仏し絶え間なく、至高なる意識に焦点を合わせ唱
え続けることでありましょう。

「愛しているのは誰か?」「唱えている者は愛では
ないのではないか」「私は思考なので、思考なく見
ることはこの私・思考には出来ない」などと言う思
考の問いや囁きに惑わされることなく、ただただ真
剣にありがとうございますと唱えるのであります。
それは私達は如何に無知であり思考によって混濁し
ていても私達は決して思考ではなくて無限に拡がっ
ている意識だからであります。この無限に拡がる
空間=空の普遍意識が私の本体なのです。
私達は肉体でもなく、思考や感情や行為でもなく、
記憶でもなく、空なる意識なのです。

・・・と

この念仏もまた自分自身を知るための一つの方法であるこ
とでありましょう。
そのように私は確信しております。


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