思考を思考だと見ること

2023/05/23(火)
私の感想

私の崇敬する黒住宗忠は「立ち向かう人の心は鏡
なり、己が姿を移してや見ん」と教えておられま
す。

 私を無視し虐める相手は私なのですと、私を苦し
める相手とは私(己が姿・自己自我)なのですと、

 私を侮辱するその相手、悪人、敵、他人、悪魔、
とは私なのに、私達はそれを自分ではない他人
だと思ってしまっています。 

私が知覚する相手とはまさしく私なのですと。

・・ですから「相手とは自分ではない」と知覚し
ているこの私の知覚とは正しく知覚していな
記憶の反応なのです。

私達はその相手をまさか自分自身であるとは夢
にも思っていません。

 しかし黒住宗忠は「目の前のすべての人とは神
聖なる天照らす御祖の神の分け御霊であり、自
分が見ている相手だと思っている目の前の他人
とは実は自分の姿そのものだ」といいます。 

 そしてその相手の御鏡に映っている自分とは本
当の私である天照大御神の分御霊ではなくて、
その分け御霊を覆っている我の心なのです」
 とそのように教えておられます。 

さらに黒住宗忠は言います、「それ人の心は天照
大御神の分け御霊にして我の心に非ず」と、私達
が私は私だ、この私は自分自身だ、この思いは自
分が思っている思いだ、この考えは自分の考えだ、
自分が行為しているのだ、自分が話しているのだ、
自分が見ているのだと思っているこの目のこの私
とは天照大御神の御霊心ではなくて我の心、即ち
「記憶」であり、私を覆い尽くしている「我の心
・私という観念」なのですと。

思い、感じ、思索し、見て、話して、苦しみ、
嫉妬し、悩み、心配し、行為しているのは
を覆い尽くしている「我の心・ 私という観念」
なのです。と。

 ・・・この様に私達は黒住宗忠のいう天照大御
神の御分心なのですが、悲しいかな我の心に征
服され、支配され記憶という我の心の奴隷とな
ってしまってることに気がつくことがないま
ま、生活し輪廻転生を続けています。 

・・・これがいままさに人類が置かれている現
状なのでありましょう。

 それゆえに私達はこの黒住宗忠の言葉を信じて
正しく見なければなりません。見ようと努力し
なければなりません。 

他人や相手とは他人や相手ではなくて自分自身の
姿であるのにそれを正しく見ていないことを自覚しな
ければなりません。

他人とは自分であることを見ることが出来ないの
であれば、それを信じなければなりません。

私が見ている相手とは「自分を覆い尽くしている
我の心」であり、それはこの私のことであり私の姿であ
るということを私は見ていないのだと自覚しなけ
ればなりません。

その私を詐称する「我の心」が行為して、色々と
悩み、感じ、話して、苦しみ、恐れているのだと
言うことを正しく見なければなりません。

この私である記憶・思考を記憶・思考として正見
することが「思考なく見る」「心なく見る」「私
なく見る」ことでありましょう。

思考を思考であると正しく見ることが奇跡
をもたらすことであると。

即ち思考している思考者即ち思考の観察者
をみることが思考からの解放を齎すと教え
られております。

「見ることそのものが奇跡を齎す」のでありま
しょう。

正しく思考者を思考として、思考してる私のこと
を思考を使って見ることが「思考なく凝視する」
ことなのでありましょうか。

思考の観察者(思考に気がつき思考を見て思考か
ら逃避したり、思考を批判している私)
をただただ見ることは気づきを齎すと教えられ
ております。

ただただ「思考を非難する観察者を見る」こと、
「思考を見ている私を見ること」ただし判断せず
、非難せず、何も評価せずに。

「思考を観察する私を見ること」が「思考なく
ること」のスタート地点に立つ事でありましょう。

それが「思考を思考なく見ること」のワークがスター
トする地点に立つ事なのでありましょうか。







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