思いをその起源までたどって行きなさい、真の自己が自らその姿を顕すのを見守りなさい!その時あなたの思いは自ずから消えるであろう・・ラマナ・マハリシ

2023/04/17(月)
思いをその起源までたどって行きなさい、

真の自己がみずからを現すのを見まもり

なさい。

その時あなたの思いは、おのずから消え

去るであろう。

ラマナ・マハリシ


私の感想

思いをその起源までたどって行きなさいとラマナ・
マハリシは言うのでありますが、日常生活の中では
わたしは、エゴに囚われ、巻き込まれ、自分自身の
内部と外部を対象として見ており、自分や他人を非
難しています。
せいぜい思考を思考で見る事は出来ていても、到底
思いのその起源までたどることなど全く無理であり
ましょう。
ではラマナ・マハリシは何を称して思考の起源と言
っているのでありましょうか?

それは
思考の起源とは空、空間のことでありましょうか。

そしてその空・空間とは即ち透明なる意識・鏡の
スクリーンの事でありましょうか。

思考が空のスクリーンに出没しているのであると
言うことでありましょうか?

是は一見すると矛盾しているように思われますが
空・空間が在るので現象も存在していることがで
るのであります。

現象界という映画は空というスクリーンに投影さ
れているのでありましょう。そしてまたその空と
は愛であり、いのちであり、意識なのですと言う
のです。

そして、その空間を知覚認識すること・それは彼岸
からの恩寵がやってきてくださることがなければ
凡人である私にはまったく不可能であり、私はそ
の段階ではありません。

ではその彼岸からの恩寵とは何でありましょうか?
それは「思考なく見ること」即ち「空」を直視す
ることなのでありましょう。

クリシュナムルティーの「思考なく見ること」と
即ち、空を観ることであり、それがすなわち恩
寵なのでありましょう。

私とは肉体や思考や感情や記憶やマインドではな
くて実は空という金剛不壊の意識なのです・・と。

ではここでいう
ラマナ・マハリシのいう思考の起源とは何でありま
しょうか?
それは「空なのである」とは教えられていること
であります。

その空から肉体の脳を通じて知覚や思考、感情、行
為、私・自己が投影され肉体に入った私達、魂と繋
がる私は本来は鏡であり、「意識」であり「愛」で
あり「透明なる空間の意識」であるのにもかかわら
ず、の脳から投影されている私・自己、思考、想
念、感情、知覚と完全に同一化してしまっている・
・・と
悟りを開いた方は異口同音にそのように仰います。

その空から思考・私が現れてくるのでありましょう。
ですから私とはその記憶の私を生み出している空な
のですと。

その空から善悪や私・私という観念が出現するので
ありましょう。空から現象界が出現するのではない
でしょうか

そしてまた
空とは透明なる意識即ち本当の私である鏡、黒住宗
忠のいう天照大御神の御分霊の事であります。

この空から思考も私も出てきたのでありましょう。

ですので思考も私も空なのであります。何故なら
この空がなければ思考も物質も私も存在(現象)
していることが不可能でありますから・・。

鏡があるので、鏡に映る心も存在することが出来
る様に、また、スクリーンがあるから世界がそこ
に映し出されているように、空があるので思考も
物質も存在出来るのでありましょう。

全く同じように
知覚認識の基盤、意識の座とは鏡即ち空なのであ
りましょう。その鏡が私達なのですと。

そして
思い、思考は空から出現しているのでありましょ
う。それはすなわち「色即是空」なのでありましょう。

表面意識という鏡があるので記憶も思考もエゴも、
して恐怖である私という観念もいることができ
いるのでありましょう。

表面意識とは空であり、鏡であり、私・I AMで
ありラマナ・マハリシ的には現象界が投影され
ているスクリーンであり、それは即ち物理的空
間でもあり、心的空間でもあり、的空間でも
ある本当の私即ち無限の空のことでもあります。
(ここでの私達が意識だと思っている【夜には
眠ってしまう意識】とは正確には思考と同一化
してしまっている意識、思考と混濁している意
識・鏡なのです)

この空間とは仏教的には「色即是空」「受想行
識亦復如是」のことのでありましょう。

エゴも私も恐怖も苦しみ悲しみも自尊心も競争心も
恐怖も暴力も愛のなさも怒りもスクリーン・鏡と
いう意識があるので知覚認識されることができるの
であるように、この空間があるのでそれら思考も記
憶も成り立っているわけであります。空間とは即、
意識すなわち本当の私の事でありましょうか。

内部も外部も、心も物理的世界も宇宙もこの空の
上に成り立っているのでありましょう。

この悲しみと苦しみと戦争に明け暮れている世界
もそれを見ている利己的な私も、視点をずらすな
らば、そこには真っ白なスクリーン、キャンバス
即ち空なるI AMが拡がっているのです。

ここでいう空とは心理的空間のことでもあり、そ
こには同時にエゴ、自己関心、嫉妬心、プライド、
怖心、苦悩というマーヤが投影されております。
そしてそれらはそのまま透明なる意識スクリーン
支えているのでありましょう。


この空間こそが神道で言う鏡、黒住宗忠のいう天照
大御神の御分心、I AMの私、ラマナ・マハリシの
言うスクリーン、仏教で言う色即是空の空、であり
その空に意識の焦点を合わせると言うことがクリシ
ュナルティーのいう「思考なく見る」であり、グ
ルジェフの言う「自己想起」なのでありましょう。

それがこの空間に意識を置くという事なのでありま
しょう。

そしてそこの実践に於いてラマナ・マハリシはその
時「真の自己が自ら姿を顕すのを見まもりなさい」
いうのであります。

ですから私達のこの意識そのものが実際には鏡で
あり、空であり、スクリーンであり恩寵なのです
と。

空の意識の中に心が現れ、意識が心を使用すること
が出来るのでありましょう。私達が意識であるとき
、心を意識的に使うことが出来ますと。

ですから意識を空間に照射して、空間に意識を拡
げるのですと。
意識とはスクリーンであり鏡であり無限なる空で
あるからですと。空間を意識することが非常に大
切ですと。

そんなことは出来ないよ・と言っているのは誰で
しょうか?
「私は記憶なので、意識を空間に照準することな
ど不可能だよ」、と言っているのは誰でしょうか?
それは自分である意識を高次と低次に分割してい
るものであり、鏡である私を覆い隠している思考
なのではありませんか。

ラマナ・マハリシはその空間に意識の照準がある
とき真の自己が自ずから姿を顕すのを観るであろ
う・・と教えておられます。

しかもラマナ・マハリシが言うようにその意識で
ある空とは宇宙そのものでもあり意識は無限に
拡がっていると言われております。

ですからミルダッドも私達にその空の中を拡がり
なさい!!・・限りなく拡がっていきなさい!!
と言っておられます。あなたは肉体でもなく、感
情体でもなく、思考体でもなく、記憶でもなく、
空間に無限に拡がる意識なのです!!と教えて
います。

良く世間では「ものが空間を占有している」「空
間は占められて」などと言いますが、空間は決し
て思考や物によって占有されてはおりません。
思考の目で見ると空間は占められているように見
えますが、思考や物質とは流れる雲のようであり、
雲が大空を占めているように見えるだけで大空は
雲によっては決して占められてはおりません。
ここに視点を変える重要性があると思われます。

ですからラマナ・マハリシはその「空」を意識し
なさいと、空に意識の焦点を合わせなさい。
思考と混濁している意識であってもかまわないか
ら空を意識しなさいと教えられておられるのであ
ります。

そして
その空にたどり着いたとき、思考はないと仰って
おられるのでありましょう。

賢者はかくの如く仰います。

「万物一切の全ては神である。万物は神である。
一切の万物てが神である。
神以外にはなにものも存在していない。行為して
いる私はいない。
行為しておられるのは神であり、神のみが行為者
である。
生きているものの全ては神であり、死んでいるも
のの全ても神である。
が私というマーヤを使って生き、死に、演じて
おられる。

神以外になにものも存在していない。神とは愛で
ある。

I AM・空の中に万物はあり、万物の中にI AM・空
がある。

全ての中に全てが在り、原子の中に宇宙が有り、
宇宙の中に全ての原子はあり、部分の中に全体が
あり、全体の中に部分がある。

I AMの中に万物はあり、万物の中にI AMはある。
主体と対象は異ならず、私はあなたであり、あな
たは私であり、私もあなたも神が演じているので
す。
自我は神の演技。
全ての物質は神の演技、全ての想念形態は神の演
技。
全ての肉体、全ての細胞、すべてのDNAを使って
神が演じて神が生きておられます。
全てのサイコノエティック体、ジーヴァを使って
神が演じ生きておられます。

有り難い、ああ有り難い、有り難い、ありがとう
ございます。

あるがままをあるがままに在るのは神であり、神
が私として、あなたとしてあるがままをあるがま
まに生きておられます。
あるがままをあるがままに生きておられるのは神
であり、神以外にはなにものも、誰も私も存在し
ておりません。
有情も無情も一切の全て、一切万物は神に他なり
ません。
あるがままをあるがままに生きているのは神であ
り、神があるがままをあるがままに生きておられ
ます。」と





× 閉じる