クリシュナムルティーは語る
・苦しみとは〈私〉の表現、〈私〉の精髄である。
・苦しみとは〈私〉そのもの、即ちイメージ、知識、過去の記憶である。
・〈私〉は思考によって組み立てられたものである。
・名前・姿・記憶などを持つ〈私〉はあきらかに思考によって組み立て
られたものである。
・あなたに空があるのなら、苦しみに対する洞察もある。
そのときには〈私〉と言う苦しみは消える、従って即時の
行動が生まれる。
・思考は愛ではない。
愛は思考ではなく叡智である。
思考は慈悲心ではない。
慈悲心は叡智である。
叡智それは思考の産物ではない。
・もし叡智をもっていたら、その叡智は、はたらいている。
それは機能している、動いている。
しかし、もし叡智の行動とは何かとたずねるなら、
その人はただ思考を満足させたいだけである。
慈悲深い行為とは何かを問うとき、そう問うている
のは思考ではないだろうか?
「もしそういう慈悲心をもっていたならば、私は
いまとは別のかたちでふるまうだろうに」と言って
いるのは、〈私〉ではないだろうか?
したがって、このような質問をするとき、人はま
だ思考という観点にとらわれている。
しかし思考を洞察すれば、それに伴って、思考は
そのしかるべき役割に戻るようになり、そうなっ
たら叡智がはたらくのである。
私の感想
記憶、それが私達の中で、私として思考し、質問していると
いうのでありましょう。
神と私、私とあなた、自我と真我、低次の自己と高次の自己、
観察者と観察されるもの、また見る者と見られるもの、主体
と客体、現象と実相などを異なるものと見、分離してみてい
るものこそ思考であり、記憶であり、私という観念という根
本無明である・・ということなのでありましょうか。
即ちこれは煩悩即菩提、生死即涅槃、自我即真我、自他一如、
万物同根、現象即実相ということであり
ラーマクリシュナが言うように、「私が生きているのではな
くて神が私として演じておられる」ということでありましょ
う。
神が根本無明を使って生きておられると言うことでありまし
ょう。
クリシュナムルティーがいう【「虚偽を虚偽と見」「虚偽の
中に真理を見」「真理を真理と見よ」】