聖なるマーヤについて


浅学非才を顧みず、また身の丈知らずの私が、恐れを知らずに、あえてこの

「マーヤ」、「神聖なるマーヤ」について思いを馳せてみた



根源又は源泉は素粒子を用いて時間と空間、宇宙と世界を出現させ、運営し、

現象界を維持しておられるという

時間と空間、至ること、なることという時間の概念はここから出ているのではないか


また、心を用いて、内部と外部、私とあなた、主体と客体、見る者と見られるもの、観

察者と観察されるもの、神と私、等々という二元分離を生み出し、維持しておられる

という


心とは即私であり、この心・マインドが自他の分離、見る者と見られるものの分離を生

み出して苦界(現象三界)が投影されているのではないか、心こそが観察者であり

経験者なのではないか

しかし,この心即ち私という意識には段階があり、レベルがあり、蝶が蛹から脱皮するように

私という意識即ち現在のパーソナリティーには多くの段階があり、意識のチェンジがあるという


現在の地球人類には想像すら出来ない「私」の段階と次元があり、私達が私と言うとき

「この私」という私とはどのレベルの私なのかを、私達、地球人類は知ることさえないだろうし

人類には未知である「私という意識の奥に知ることの出来ない私」があるということは想像

すらできないことだろう


さて根源はコーザル体(アーナンダマヤコーシャ)という自己、自我の記憶の継続体の

乗り船を用いて輪廻転生を継続させておられ、進化という仕事を行っておられるという


それと同時に、カルマを使って自己自我と言う行為者、観察者、体験者を継続させておら

れるのだと


また同時に、現在のパーソナリティーと言う自我体とその諸体を使って、私、自己、自我

という「自己意識」を生み出し、神に向かって歩んでいく自分という自己を演じておられると

いう

この現在のパーソナリティー又はヴィジュニヤーナマヤ・コーシャこそ輪廻していて生長してい

る自己・自我のことであり、多くの段階を経て脱皮していくという

現在のパーソナリティーというセルフエピグノーシス(自己意識)はその都度脱皮するのである

この現在意識の私とは幾多の人生を生き抜いてきている特色ある個性を持つ継続している

私のことである

しかし深い私、コーザル体の記憶とは、私個人だけではなく全人類そのものの記憶でもあり、

この個人とは全人類に他ならないとも教えられている

そうであるのでこの自我とは自我が思っているような自我の事ではないし、心も心が思って

いるような分離している主体ではない・・・と聖賢の方々は言っている



しかし、現在のこの私とは、現段階の人類に於いては

自分が自由意志、選択を行っていると錯覚している、主体、自己のことであり、肉体に結合

している形成途中のサイコノエティック体と自我体の「自己意識」であることだろう

この段階の現在のパーソナリティーとは肉体に結合したが故に、自分が行為していると

錯覚し、自分自身がサイコノエティック体という思考・感情体でもあるために自分が自由

意志で選択し、自分が行為し、思考し、自分が欲しており、自分が感じていると錯覚して

しまっている・・・

現在の人類の私の段階とはその私の事である・・・

そして、その私(思考の記憶)が肉体の死後も意識が継続し、再誕のために個別的霊魂

に戻った後に再び来世においても、復活し継続されていくのである



この私、これが世に言う観察者、体験者、経験者でありヴィジュニヤーナマヤ・コーシャの事

であろうか、ヴィジュニヤーナマヤ・コーシャとは死後の霊界において、新たなる母胎に

再誕する際にはコーザル体に引き上げられる(この物質界の熟睡に似ている)ところの私

であり、更にこのコーザル体は個別的霊魂に帰還する


このヴィジュニヤーナマヤ・コーシャとは

今回の人生の成果を蓄積し継続しており、自他に分離していると思っている「私」でも

あり、内実は心・マインドの私という観念の質料から構成されているのではないか

(実際にはその私という観念そのものは、分離個別していないのに、自分は個別で他

とは分離していると錯覚しているので常に恐れ、比較し、自己の利益を求めている)

このヴィジュニヤーナマヤ・コーシャを構成しているのが、思考体(メンタル体、ノエ

ティック体)、感情体(アストラル体・サイキック体)であり、このヴィジュニヤーナマヤ・

コーシャが諸体と共にプログラムされた肉体とに結合したのである

従って

自己自我というヴィジュニヤーナマヤ・コーシャはこの特定の肉体に起こっている行

為と出来事、頭脳に起こっている知覚や記憶等の肉体の機能を自分が起こしてい

る、自分のものだと錯覚している・・しかし、このヴィジュニヤーナマヤ・コーシャとはコー

ザル体を乗船として継続している自己であり、その自我・自我・私とは乗り船である

ところのコーザル体が戻る個別的霊魂が投影している私という自己意識であるように

思えるのである


自己自身・自己意識も含め、心や、思考や、記憶や、感情などもそして感覚や知覚も

認識も、個性も記憶も・・・実は、私のものはなにもないのである・・といえるのかもしれない

真の私とはこの意識的自己ではない

・・・とここまでは私もそうだが頭でっかちな誰でも思考出来る考えである


しかしここでこの話は終わらない


私達人類には想像も出来ない段階があり、自我ではない「私」というステートがあるからだ

この現在のパーソナリティーが自身の高次の私と繋がる可能性があり変身の可能性

があるからだ

新たに生まれたとき(転生のことではない)、脱皮したとき、新たにこれらの高次の私と繋がり

蝶となった現在のパーソナリティーに於いては、全く異なる表現が許される事だろう


それは地球人類には全く知られることのない「無為」という真の行為のことであり

生まれ変わった現在のパーソナリティーが高次の意識と繋がることによって可能となった

「真の私」のことである

これは地球人類には知られることのない意識の事であり、意識である私の事だ

この段階で初めて思考ではない、真の「あるがまま・見ること」に言及できるのであろう


これらの事柄は、私などの低レベルの段階の者が語れることではないけれども

あえて挑戦してみた次第である

聖なるマーヤとは、根源から起こっているこれらのシステムのことであり、このシステムが

起こしている、現象三界の非常に複雑なる内容なのではないと推測している



そしてそれは、源泉が行っておられる「演技」「縁起」なのではないだろうか?