三つの意味合い
「見るものは見られるものである」とのクリシュナムルティーの言葉は三つの意味合いを持っていると
考えられる
1:初めは思考のステージで
「見るものは見られるものである」の見ているものというものを自他を分離して見ている主体というものだとした場合
その意味合いでのその「見るもの」とは自我・思考のことを見るものだとして、捉えている観点である。
そこでは「見るものは見られるものである」という言葉での“見ているもの”とは次のようなことだ思われる
それは“思考を見ているものは思考”なのであり、“知覚を知覚しているもの”は知覚であって
“恐怖が恐怖を恐れている”、“内外に自我を自我と見ているのは自我(私という観念)”なのであり
自我という自己の内面を、他己の内面に映して見ているところのその見とは、その自我そのものの目であると、言う
ことである。
この自他の関係性を見ているのは自我である思考だ。それは共に同じ無明であり、私という観念である心である。
これらの虚偽を虚偽と見ているのは虚偽である思考だ。
善悪を内部と外部に見ているのは分離している自我なのである。
・・・・・ということについてそのように思考しているのは、その思考されている内容、即ち自我そのものであり
自我が自我について、思索し、思考しているのであり、そのように考えているのは自我である思考だと言うことである。
このレベルでは虚偽が虚偽について思い巡らしている状態であるといえる。心という制約の中を堂々巡りしている。
それは単に思考が思考を思考しているだけだ。その私と言う観念は思考である自我を決して超えてはいない。
私久保栄治の意識レベルはまさにそうことである。
2:次のステップの中次の思考では
「見るものは見られるものである」といわれているその見るものという主体を聖賢方が言われるように
その見ている目のことを純粋主体であると信じ確信している場合である。
ここでは見ているものも見られるものも、純粋主体そのものであるという事になる、なぜなら純粋主体は内部と外部に
分離していない純粋空間であるからだ。
この目の中では見るものと見られるものの二元分離は解消している。それが非思考の目であり、非対象の目である。
すべてを一体・ひとつと見ている分離のない不二一元の目である。
だがこのステージでは
ただそれを知識のレベルで知っているだけであり、その知っている知識は思考なので、思考をいくら延長し拡大しても
非思考、非対象の意識、純粋意識には全くならない。だからこのステージでの「見ることの理解」とは誤解に過ぎない。
従ってそれを確信しているものは、確信の状態ではあっても理解のステートには至っていない。誤解をしているに
過ぎないのだ。
・・・・ということを思考しているのが自我であり、自我が次元の異なる高次の意識の事柄を思考している状態である。
思考ではない状態を思考が観念しているのであり、これは誤解に過ぎないが、正しい方向、正しい観念ではあるといえる
がしかし、これは未だ観念ではある。これは未だ知識であって実感ではないからだ。
語れないことを語ろうとし、理解できないことを理解しようとしているのだ。理解は瞑想と同じくそれは起こることだ
と言われている。
この状態はまた、自我が自分が行為しているという実感があるのにも関わらず、行為は起こっているのだ・・など
と自我が、学んだことをただ単に思い込んでいる状態だ。真理は学んだり記憶することでは理解は出来ないのだ。
これは“正しい観念”を言葉で述べているだけの状態であり、実際にはそのことを滔々と話している自我はその理解に
貫入しているわけではない。コンピュータでもそのくらいのことは出来るからだ。
その様に信じて確信しているのは自我であり、“行為は起こっている”と、この段階では、その自我が言っていることと
正反対の自分が行為している実感があるにもかかわらず、それをそのように《「正しい観念」》でもって述べているのは
自我であり、自我が自己の内部に目を向き始めているこの状態に対してクリシュナムルティーは「虚偽の中に真理を
見よ」といわれたのに相違ない。
虚偽の中にあって真理を見ようとしているのは、真理が生まれようとしている前段階である。
この段階とは思考が思考の基底に触れようとしているのに違いないと思われる。きっと思考の終焉を迎えるに違いない。
3:本当の意味での「見るものは見られるものである」の言葉の真意は、万物はブラフマンであるという實証・自証である。
その主体と客体が分離していないとは不二一元の目であり、ここでいわれる見るものとは、分離している私という観念
のことではなくて真理そのものの目であり、主体が真の私であるとき、そこには最早分離している私は存在していない。
自と他の区別はそこにはないと言われている、ことがらのことだ。
逆に言えば分離している主体感覚が残存している限りはあるがままをあるがままに見ることは起こらないと言うことだ。
自と他を区別して知覚し、他人と区別できる私が残っている限りは、この“見ること”は起こらないと言うことである。
自分が行為しているように思えたり、他人がいて行為しているように見えたりする限りは見る事は起こらない。
この状態での見るものとは純粋主体のことを指しており、そこには真理だけがあり、この目であるときには対象や、
対象と主体の分離を引き起こしている心は一切存在していない。
この状態の目とは、言葉を超えており、神が神を見ている状態だと言われており、純粋意識の目である。
純粋空間の目である。
この目である場合は
分離や二元はなく、あなたと私の区別もない。この目で在る時にはマーヤの奥にある根源が顕現しており、すべては
完全完璧であるとの真実を知ることになる。マーヤは一転して慈悲の姿となるのだ。
ラーマクリシュナによると
海を探しに行った塩人形が海というものを遂に探しあて、ついにその海に溶けて一つになった状態であるという。
真理が真理を見ているのはこの真理の目である。もはやそこには思考の私はいない。愛だけがあるからだと。
その状態が「見るものは見られるものである」の真意であるといえる。
この「見るものは見られるものである」ということの理解には三つの段階があるように、同じく「行為は起きている」、「行為
は根源が為している」ということの理解にも三つの段階があるように思われる。
この「行為は起こっている」という事実には、
自我がそれを単に自我にとって都合が良いように思い込み思考している状態と
自我がその行為を起こしている根源の意識へと、思考を振り向け、その事実に留意している段階と、
そして本当に行為は起こっており、行為していないとの理解と実感が生じているところの自我がない段階とがあり、
それを明確にしない限り、
この「行為は起きている」ということの事実も、その言葉を聞く側の解釈によっては全く異なるように歪曲され、
自我の都合の良いように利用されてしまう危険性をも孕んでいるといえる。
だからシャンカラは「起こっている行為を、為していると錯覚している自我がその行為の責任を負うのです」と言って
注意を促しているのだ。行為の責任がないのは、行為の本質を見ている真の私であって、行為をしていない純粋主体である。それは行為しているとの実感をしている自我のことではない。
自我はカルマの中にあるから自分が行為していると思っているのであるからである。
「行為は起こっている」とは自我の終焉が起こった後の真理自身が実感している言葉であるのだ。
それが「見るものは見られるものである」の真意だ。その意識は全体でただひとつなる内なる創造者の意識なのだ
そしてそれが内部なのだ。