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「見る事」のなかでは同じことである



行為とは、自己または他己によって為されているにせよ、行為は源泉によって起きているまたは起こっている事にせよ、

「見る事」のなかでは同じ事ではないか。

行為とは、自由意志で自分が為していることであるのか、はたまた自分という現在のパーソナリティーを通じて

源泉または、根源によって為されている事であるのかにせよ。

すなわち

行為は為していることにせよ、為されていることにせよ、「見る事」のなかでは同じ事ではないか。

それはまた、同じように、思考や、想念や、欲望や、感情は為していることにせよ、為されていることにせよ、はたまた

起こしている事、ひき起こされていることにせよ、

また、出来事とは起こっているにせよ、ひき起こされていることにせよ、「見る事」のなかでは同じ事ではないか。



ということは、出来事ということも自由意志で起こしているにせよ、出来事は私の内奥の私によってひき起こさ

れていることにせよ、それは「見る事」のなかでは同じことなのではないだろうか。



それらは、ともに純粋化し透明になった現在のパーソナリティーを通じて見られるべきこと、理解されるべきこと、

純粋に認識されるべきことがらなのである。



同じく「見る事」の中では、“これは記憶の私の反応なのか、それともどの次元の私なのか?”という疑義・区分は消滅してしまう

なぜならその、この「現在思っている私とは、一体どの私なのか?」と思っている私をも含めて、それは観念であり

その“どの私なのか”と詮索すること自体が区別・分離の働き・作用なのであり、それらは「見る事」によって見られて

いるからである。

自己や他己への“この私はどの次元の私かと思う事”自体が分離である観念の働きなのではないだろうか?

見る事の中には、“この自分は一体どの私なのか”という観念を含めて見られているので、どの私か?という

質疑とその区別観と階層分けなどのいわゆる“私に対しての自己の仕分けは作業”は意味を成さず、

それらは「見る事」のなかでは消失してしまっている。



この行為も、出来事も、全人類が共通して覆われている「自他に分離している私という観念」も、なにがゆえに

そこに有るのであろうか?

それは見られるべき私、愛されるべき私、理解されるべき私として

行為や、出来事や、思考や、感情や、欲望や、衝動と同じように純粋に見られるべくしてそこに有るのではないだろうか?

そして、その際の「見る事」の主体とは、非分離の純粋主体であり、それらの見られるべき私という主客に分離している

私ではなく、「自他の区別なく愛の中で見ている私」である。


その自他の区別なく、ただ愛の中で見ている私によって見られるもの、それらは純粋なる「目」によって、

みられているものであり、純粋なる目によって見られるべき、人類に同一の「私・私のものという観念」である。

その「私・私のものという観念」とは、すべての人類に覆い被さっているもの、それこそ根本無明といわれている

ものなのではないか


そして、それらを見ている「その見る事」とは、

芸術であり、技術であり、習熟するべき「ただ見る事」である。

従って見る事とは、学習し習得すべき技術であり芸術であるとも言われている。




「見る事」それは

評価せず、非難せず、判断せず、受容せず、逃避せず、同一化せず、整理したり、名前をつけたりせず

求めることなく、排斥することなく、好むことなく、嫌うことなく、渇望したり、拒絶することなく

善悪の価値で定めたり、基準を設定したり、段階を定めたり、高低やレベルの評価をしたりせず

自己と他己の区別をせず、損得勘定をしたりせず、自己に高次低次をつけたりせず、主体に段階をつけたりせず

利益になることを求め、不利益になることを退けたりせず

楽を求め、苦痛を避けたりせず、

一切の選り好みをせず

ただただ、起こしている、または起こされている出来事と、行為と、思考と、主体とを思考なく見守ること。

行為しているその行為者の行為の原因と、動機と、目的を直視して、

行為していること、その行為を見守ること、思考と私を見守ること。



この愛のなかで分離せずに見ていることの中では

出来事や、行為や、起こっている事は、愛を持って見られている。

ただ愛の中で見られている。

行為とその行為している行為者は、ともに平等に、両者ともに、愛をもって見られている。


それ故に、その見る事のなかにおいては

行為という事柄が根源や源泉によって起こっている事柄であるにせよ、はたまた

“自分が自由意志でもって行為しているのだ”という行為者の感覚でもって、行為しているにせよ

ただただ見られている。


その自由意志でもって行為している私とは、その自由意志ゆえに個人の責任というカルマを背負っている。

カルマとは行為であり、自己という行為者のことであるけれども

(果たしてそのカルマを負うであろう私が行為しているにせよ、あるいは又そうではなく源泉が行為しているにせよ)

「見ている事」のなかでは同じだ

自由意志で行為しているにせよ、行為が根源によって起こされているにせよ

その「見る事」のなかでは、自他の区別が存在していないので、自他も行為者も行為もひとつのものとして見られている。

行為者と行為は、その見ている「見る事」の中で分離していないことになる。

すべてが愛されているのである。



分離していない「見る事」とは限りない愛であるからである。



『あるがまま』を見る事は芸術であり、学習であり、技術である。

起きている事と起こしている事を区別なく見ること。

そしてそのとき

起こし起こされていることと、同時にそれに対して反応している私とを愛を持って見ることの学習が始まる。



思考も、感情も、知覚も、衝動も、欲望も、感覚も、行為も、起きている事も、出来事も、私も、私という観念も、

そのとき「ただ見る事」のなかで愛を持って見られている。




そして、

その見る事、見ている事が思考による偽物ではなくて,本物の見る事であるのなら

その見る事は、身体の頭脳に拠らないのであり,眠ることはなく、中断することなく

夢を見ているときにも、

日中の覚醒時のときにも、

そして熟睡時にも

決して、途切れることなく

この見る事は続いていると教えられている。