「私」は目を観ている「目」である


あらゆる目は同じである。なぜなら同じ一つの「私」の目によって観られているから。


肉体や、感情や、思考や、自我や、出来事は、個人・人格によって視られている。

個人の眼によって視られている。

内面という内部も、出来事である外部も、その外部である起きている事である、家庭も、社会も、世界も、

テレビをみることも、新聞を読むことも、自分が考えていることも、人の考えを推測することも

善いことも、よくないことも、物質も精妙なる質料も、対象の知覚は、この眼によって視られている。

内面の嫌悪も、成功も、失敗も、悲しみも、苦しみも、心の中にに起こる動機も、目的も、この個人・人格によって視られている。

この自分自身・個人である自我は、この個人・自我によって「自分がみている対象」として視られている。

だが、この個人・人格こそが幾世にわたって、サムスカーラによって積み重ねられてきた「思考であるところの記憶」ではないか。

この各諸体の条件付けられた脳の中で、積み重なった「思考の記憶」がそれ自身(自我・人格)である眼で

その「思考の記憶」が覆っているものを知覚している、即ち視ているのである。


この

人格・個人の眼とは「心の記憶」の働きであり、心で成り立っている。

それがこの観察者と呼ばれている個人・人格・自我の眼である。

この眼である観察者が視ていること、とは思考の記憶自体の働きであり

その視ることは記憶の条件付けから成り立っている。        

この記憶が見ているものとは、本来のあるがままを見ているのではなくて

記憶から視ているのである。

記憶の内容をあるがままにダブらして視ているのだ。

即ち、あるがままを見ているのではなくて、条件付けられた記憶が記憶を見ている。


「観察者は観察されているものである」と言われているのが状態のことである。

この内部と外部を分離して視ている眼とは、思考であり心に過ぎない、

この眼とは如何に才能や経験が継続しているとはいえ、心であるサムスカーラの継続に過ぎない

その眼とは、心によって条件付けられているからであり、心そのものであるからである。




通常の視ていると、一般的に言われていることとは、「この心のことを、心である眼が視ている事」である。

ということを、

この「個人である自我」が気づいたとき

即ち、「観察している者は観察されているものである」ということを

観察者という記憶・個人が理解したとき


その「観察者は観察されるものである」ということを視ている中に(本当の凝視・禅定のなかに)、

即ち、このことを、思考が静止している“沈黙”の中で、理解している中に

心を見ている「目」が出現している。

見るものや、見られるものではない、主体と客体に分離していない「見」ている目が姿を現している。


人格や個人や自我の眼を、愛の中で見ている静寂の「目」が出現しているのだ。



この目は思考ではない。思考を正見しているからである。

この目は思考がない目、思考ではない目であるからだ。

「記憶の反応であるところの眼」を見ている「目」それ自体が出現している。

この目とは、心や自己・自我を非難なく、評価なく、自他の区別なく見ている目である。

肉体と諸体の頭脳の働きを見ている目であって頭脳の働きではない意識そのものの目である。



この目のことを、観照者とか、統覚機能とか、永遠のパーソナリティーとか、魂とか言われているが、それは「目」そのものである。

この「思考の眼・心の眼」を見ている目とは、あるがままに繋がっており

あるがままを見る事に繋がる目である。

この目とは沈黙であり、思考や心ではない。思考と心を見ている目であり。思考や心ではない。

この目の中に思考は働いていない。静寂であるからである。



この「目」とは、本来の「私」に繋がっており

本来の「私」の一部であり、この「私」が、この本来の「私」である沈黙と静寂の

中をさらに正見しているとき




そこに、本来の「私」が初めから時空を超え、自他を超え、内部と外部を超えて、見ていたことを

この「目」は、この自我をいつ如何なる時も見て下さっており、実在であり、時を超えて全てを見ていた事が理解される。




「私」とは、どんなときも、どんなであったときも、至高なる愛の中で「目」を見てくださっている「私」なのである。

その「私」こそ愛でなくて何であろうか。







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