本来のマインドは汚れていない
あらゆるものに私を観ているのは、真実の私であり、それは豊かである。
あらゆるものに私以外のものを見ているのは私ではなく、それは死すべきものである。
その死すべきものとは私ではなく、私が纏っている衣裳であるところの諸体であり、その諸体の眼である、諸体の知覚である。
そのように聖賢は言う
だとすれば
諸体の私を自分だと錯覚し、諸体の眼を自分の眼だと錯覚し、諸体の知覚を自分の知覚だと錯覚し、諸体の認識を
自分の認識だと錯覚したのは魂であるといえる。現在のパーソナリティーとは魂の現在意識部分であるからである。
現在のパーソナリティーと一体である魂が
魂の内奥の「私」に留意していない、または気がつかないで、私ではないものの認識を「魂の内奥の私の認識」と勘違いしている
それは丁度、現在のパーソナリティーが諸体の知覚を自分の知覚と間違えているように、魂は自身の内奥である「私」に気づかず
現在のパーソナリティーの知覚や認識を自分のだと同一視してしまっているのと同じわけだ。
この世界を対象として、自分と分離していると見ている目とは私の目ではない。
この出来事を、環境を、世界を、そして「諸体である私」を対象として認識しているのは私の認識ではない。もし私が見ているなら
すべての中に私を見ているからである。世界は私だと云うであろう。
それは愛が愛を見ており、対象として分離して何かを見てはいないからである。
そして真我である愛をどこにも見いだすであろう、決してそれ以外のものは見ることはないであろう。
それ故に、この思考している思考とは私の意識ではない。
もし私であるなら思考ではなくて意識であり、限りなく拡がっている意識であり、気づきであるからである。
この内部と外部に分割した知覚と、この認識とは、
曇りガラスに覆われてしまった諸体の眼であり、諸体の知覚であって私の目ではない。
その錯覚に「魂の現在意識である現在のパーソナリティー」が陥ってしまっているのである。
現在のパーソナリティーが諸体の知覚や思考というものを自分の知覚や思考だと錯覚して、それに対して反応して
しまっているのである。
では何故、現在のパーソナリティーという「魂の現在意識部分」はそのように錯覚して考えたり知覚したりして、
「全体である私の認識」と「普遍である私の意識」との繋がりがないのであろうか?
「真の私」の気づきや意識を思い出すことが出来ないのであろうか?
それは現在のパーソナリティーの状態に因るのである。
現在のパーソナリティーが現在意識である以上、現時点における現在のパーソナリティーの状態とは、
この現在のパーソナリティーの機能の状態でもある
「普遍なる私」との繋がりが充分ではなく、従って「本来の諸体の機能」が充分に働いていないのである。
このようである現在のパーソナリティーの状態での当然の帰結として
その「私ではない知覚」を私の知覚だと思い込み、「私ではない認識」を私の認識だと勘違いし
私ではない不透明なる思考・マインドを私の意識であると、思い込み
私ではない諸体の私を私自身であると取り違えているのである。
私・魂が「私ではない諸体の私」を私だと思い込んでいるのである。
それはある意味では致し方ないことでもある。
諸体が根源によって生じ、現象しているように、諸体の私も根源によって生じ現象している
そして又、諸体を自分だと見ている現在のパーソナリティーも根源によって生じ現象しているのである。
それゆえに根源によって現在のパーソナリティーの状態が決定されているわけである
とはいえ、私・魂とは気づきであり、純粋なる意識、純粋なる認識であり、わたしとは思考や観念や分離知覚ではない。
私は純粋に見ている「目」であって思考ではない。思考は私の属性ではない。私とは息である生命であり意識であって思考ではない。
その純粋なる意識の内実、それは・・・・、
現在のパーソナリティーにおいては漸新的にではあっても根源による真の私からの気づきの煌めきが始まれば徐々
に分かってくることでもある。
諸体の知覚も、感覚も、感情も、思考も、想念や観念も起きている、起こっている。
その起こっている現場(この身体と脳)に魂が現在のパーソナリティーと一緒に降下して、巻き込まれているのである。
複雑なる事象の結果として成立している行為も起きていることである。
行為とは、魂が降下したこの現場で起きている事柄である
では行為しているのはだれか?それはだれか?諸体か?それとも魂か?
行為することが出来るものは根源を於いて他にないことだろう。
私とは行為しているものや行為に関わっているものではなくて、行為から離れて行為を観照しているものである。
行為や思考や出来事に私は関わっておらず、それらは起こっている。
行為は起こっている。行為とは観念である領域・次元に起こっている事柄である。
それゆえに
その起こっている行為や出来事や思考や感情を判断せず、非難せず、同一化せず、対象化せず、命名したり分類せず
私と分離しないで、あるがままをあるがままに見て、観照しているものが私であり、意識である。
その逆に
それら起こっている事柄に対して関わってしまい反応し、その思考や感情や出来事や諸身体を自分自身だと思い込んで
いるものが現在のパーソナリティーである。
その行為や出来事に関与しているものとは諸身体であり、その行為や出来事の一部であるものであり、それは私ではない。
身体は根源のものであり、行為も同じく根源のものである。それらは起きている。
根源によって起っている事柄である、事象である、現象である。
そしてそれを観照している私も根源の一部であるものである。
根源によって現象しているもの
それは死すべきものであり、私が自分だと錯覚してしまった、私ではないところの肉体や諸体の私の知覚であり、思考である。
そしてまた、それを観照している私とは、
根源の現象ではなく、根源そのものでもあると云わている。