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幾重ものサングラス



私たちの現在のこの時点での意識や思考や知覚の状況とは、幾重ものサングラスをかけている状態の意識であり

サングラスの知覚や思考だと言われている

それは裸眼である真我に、いろんなサングラスをかけてしまっている状態なのである。

そのサングラスの知覚や認識や低次思考も本当の目が実在しているが故に仮象し機能することが出来ている

その幾重にもサングラスをつけている状態とは、数多くの私・自己と言う各次元・各段階の「私・主体」が階層的に

目を覆っているのである。その目を覆っているサングラスが透明ではなくて、極度に汚れがついていることが

問題を大きくしているのである。もしその眼鏡が透明であれば内奥の目の輝きがそれらの目を通じて各次元に

放射されることであろう



本来の裸眼の元々の目とは、ブラフマンとアートマンは同一である、主体は客体である、というところのその真我そ

のものの目であるのに、サングラスであるそれらの「私という主体意識」と、それぞれの段階の知覚と認識と思考が

目に覆い被さっている。

私が思い、認識し、考え、願い、欲し、衝動し、感じているのではなく、その目を覆っているサングラスが思い、認識し、

考え、願い、欲し、衝動し、感じているのを、魂がそれを私の考えや思いや認識だと勘違いしているのである。


この真我の目である裸眼に、

即ち分離がなく、主体と客体の融合しているこの真我、自他の分離のない瞬時の全体認識と完全なる知覚である真我を

幾多のサングラスが覆ってしまっている訳である、

このサングラスに覆われている状態が現在の私の状態であり、その覆っているサングラスがこの現在の意識である。


そのサングラスとは、幾多の段階があるにせよ、畢竟、多くの幾重もの階層をなしている「私という分離している観念」であり

その最初には「根本無知」があり、そして魂の私というサングラスがあり、多くの諸体の私というサングラスがあり

肉体の頭脳の私というサングラスをかけてしまっているのである。と、




そのサングラスのうちの一つであるのが肉体の細胞核に組み込まれているDNAである。

そのDNAはカルマからも書き込まれており

肉体の頭脳に、衝動と思考と感情とを起こさしめ、肉体の健康や病気や才能といった状況を起こさしめている。

その頭脳のDNAもサングラスの一つであり、頭脳を条件付けているものであるといえる。

DNAが脳の中で思い、行い、感じ、考え、欲するのである。そしてそれを認識した魂が自分が欲している、自分が考えて

いるのだと錯覚したのである。


そのサングラスであるDNAに代表される意識や思考や思考や欲望とは何であろうか?

そのうちの一つが競争心である

「私はひとかどの人間になりたい」「私は他人を支配する偉大な人間でありたい」「私は満足していたい、満たされていたい、安楽でいたい」

「私は一番でありたい、他人より優れていたい」「私は神の様に偉大で全知全能になりたい」「私は安定したい、私は安全でありたい」

「私は尊敬されたい、崇められたい」「私はすべてを知りたい」「私は大統領になりたい、支配者となり、思うように動かしたい」

「私はキリストの右側に座る人間でありたい、神に認められ褒められたい」「私は悟りたい、解脱したい」などの自我の欲望と

その自我の想念と思考を起こさしめているのが、その脳の条件づけであり、その条件付けであるのがDNAである。


そのDNAが衝動を起こさしめ、その衝動に基づく行動を起こさしめ、身体の状態をそのようにならしめ、その衝動である想念と、

欲望と、思考を、そして印象と、形象と、記憶を脳内に起こさしめている。


肉体とエーテル複体の根本の設計図、それがDNAという条件付けである。

そのDNAという設計図から人生劇場は演じられており、その演じている肉体を自分だと思い込んだ現在のパーソナリティー

と魂が「人生劇場」に巻き込まれている。

私達はそのDNAの引き起こしている思考を、欲望を、感じを、考えを、行動を、記憶を、それが自分だと信じているけれども、

それは条件付けられているDNAであり「私という想念」であって、それを観照している私ではない。

けれども残念なことに一般人である現在のパーソナリティーとしての私達は、その様には思わないし、その実感も、

ないわけである。魂である観照の実感が乏しいからである、直覚が機能せず、純粋理性が働いていないからである



それぞれのサングラスは、それぞれに「私と言う主体感覚」を持っており、かつまたサングラス特有の「目」を持っているので、

それぞれのサングラスには、それぞれの知覚と、感覚と、認識を持っているわけで、それらの私には、私という主体感覚と

認識機能が備わっているわけであるが、それは真の私の主体感覚「すべてはわたしにある」でもないし、すべての次元と

すべての私というものを意識している認識ではない。


また「動物魂の私」も、この肉体を使用して進化の階梯を歩んでおり、私という知覚と認識と思考を持って生きているのであり

その「動物魂の私」もこの同じ一つの身体を使用している私として、肉体自身の知覚と、思考と、認識と、記憶を自分のものと

思っているし、その肉体を使用して生き、且つ行為している。それなので、それもまたサングラスの一つであるといえる

それなので、この肉体自身の意識や頭脳の記憶であるところの人格・個人もこれまたサングラスの一つである

肉体とは別に、エーテル複体の頭脳や神経組織や知覚があり、その認識があり、それが見ている目がある

サイキック体という幽体の見ている目があり、知覚があり、認識がある、メンタル体もまた然りである

魂の見ている目があり、その知覚があり、認識があり、その見ている世界がある



その「それぞれの私という主体」には、それぞれのその分離した主体によって知覚し認識されている

分離した「見られている世界」が対象として広がっている。

それがサングラス特有の認識なのである。内部と外部が分離し、自と他が分離し、見る者である主体と、その対象に

分離している

それぞれのサングラスであるそれぞれの私の見ている世界とは、そのサングラス特有の特色があり、その

サングラスによって見られている世界とは、まさに見ているサングラスの目であり、サングラスの目が生みだし

たものだ。それだからこそ二元に分離しているわけである。


見られている対象世界とは、見ているサングラスの状態を表しており、外部は内部である。

外側の対象世界は内部を投影している、そしてその内部とは根源と言われているマーヤであり

神我の内部にある「マーヤと言われている根源」である。

その縮小版がそれぞれの「個人に関心を持っている自我」が投影している外部世界であるといえる

見られている世界や対象の状態とは見ている「サングラスの私」そのものであるといえる

そして、それに対して反応して「もっと良くならなければならない」、「自分は変わらなければならない」などといっ

ているのもそのサングラスの意識である。


観察されるものは、観察しているものそのものというサングラスの状態であり

そのサングラスの私である似非主体の状態を表しているのがサングラスの見ている、分離している対象世界ではないだろうか?

見られている対象は、見ているものであるそのサングラスの状態であるのに、サングラスはその対象世界を

自分が生み出したもの、自分の状態そのものであるのではないと信じ込んでいる。それは外部であって内部ではないと思っている

そして外部を何とかしようと躍起になっているが、その外部も内部もともにそのサングラスでみている状態なのである

あるがままをあるがままに見るためにはこのサングラスを外した状態、即ち瞬時の理解である純粋理性を必要とする

純粋理性という気づきでなければあるがままをあるがままに見ることは出来ない。




結局のところ聖なるマーヤが見ている主体と見られている客体を生み出したのである。

聖なるマーヤが時間と空間とマインドと素粒子を生みだし、主体と客体を認識するマインドを生み出していると

いわれている訳である



けれども

裸眼という真我においては、対象はなく、この裸眼の主体とは「対象を分離して見ている主体」ではなくて、

対象と主体の分離していない主体であり、「私はすべてにある」「わたしはそれである」といわれる私である


けれどもその裸眼の目、若しくはその「私はすべてにある私」であり、その真我と

はDNAで条件付けられているサングラスの私では認識できない、認識の対象ではなく未知なる認識そのものであるからだ

その高度の意識状態は、現在のパーソナリティーである現在の意識状態である極度に曇ったサングラスでは

見ることが出来ない。

現況の私の思考では把握できず、推測も出来ず、理解も出来ない

なぜなら、その現在の私の思考とは、まさしくDNAサングラスを架けている状態でのサングラスで曇っている

ところの知覚であり、思考であり、五感であり、認識であるに過ぎないからである。

裸眼の状態は裸眼によってのみ知られ、理解され、認識される。真我の意識状態や自分自身は自ずと知られる

ダイヤモンドはダイヤモンドによってのみ見られ、認識され、知られる。真の私は真の私によって知られる。



上位である目というよりは、裸眼により接近している魂というサングラスであるときには、

この自我を含んでいる現在のパーソナリティーは、我性は解消し純粋なる現在のパーソナリティーであるので

魂の内奥の光が魂と現在のパーソナリティーを透過して

より曇りなく真実に近い状態であるがままを見ることが出来るであろう

「虚偽を虚偽として、虚偽の中に真理を見て、真理を真理として」見ている事だろう

そのとき、その段階で、初めてDNAの条件付けから解放された目でもって、それなりの裸眼に近い真実を見ること

が出来ることだろう


しかし、この錯覚という、幾重にも重なっているサングラスの知覚も、思考も、認識も、記憶も、それら低次の私も、

現在のパーソナリティーの私さえも

このサングラスを架けている「裸眼の私」があるからこそ、それらのサングラスの低次の認識と、低次の感覚と、

低次の記憶と、その条件付けにまみれた思考や感情や衝動さえも成り立っていたことなのであると


この分離している虚偽の私も、分離していない真実の私がいるからこそ成り立っているのだと言われている

そのとき分離している私はもはや存在しておらず、はじめから存在していた「あなたはそれである」という本当の

認識主体が姿を現していると