理解は起こる
ニサルガダッタ・マハラジは語る
「全ての体験の中にはそれぞれの体験者が現れて
記憶が連結するという幻想を与えるのである
実際には各体験にはそれぞれの体験者がいる
それらの体験者達が同一であるという感覚は、
全ての体験者と体験の関係の根底に
おいて共通の要因があるためだ」と
此処で言われている共通の要因とは何であろうか?
それは継続している記憶だけではない
継続している記憶があることができるのは、同一で自他に分離不可能な気づきがあるからであると思える。
この分離不能な気づきからの統覚機能があるので、
その都度の体験に由来する個々の体験者がいても、
この「同じ私が継続している」という錯覚をしている「継続している記憶」の存続が可能になっているのだろう。
その錯覚を維持するためには個々の統覚機能の根底に於いて同一で自他に分離不可能な気づきがあるということだ。
ここでいうその都度の体験に由来する個々の体験者とは、大脳生理学者の言う「エピソード記憶」に他ならない。
クオリアとはこの記憶の反応「エピソード記憶」の実感であり、脳は各体の脳が絡んではじめて正常に機能している
脳自体の条件付け及びDNAの条件付けによって脳によって実感されるマインド・思考・記憶・体験・知覚は
それらの条件付けに従って「私達は肉体であり、心であり、個人であり、私が行為して、私が生きている」と錯覚している
が、しかしこの観念は現実ではない、条件付けられた脳によって生み出された実感を伴っているバーチャルに
過ぎない。
それぞれの行為とその体験の中には、それぞれの行為している私、体験している私が現れ
そこには一定期間継続している同一の脳があるために同一の継続している自己がいて行為をしているという
記憶の錯覚に実感を与えているのだろう。
自己という身体を持った同一の私がいて、その同一の私が行為し体験し、過去現在未來を生きているのだという
錯覚の実感とは記憶によって生み出され形成されている幻想であるといわれるのだ
統覚機能が(私と言う根本第一観念に覆われているので)記憶を自己だと錯覚したのだと言われているのだ。
統覚機能の内奥の気づきが真の私であるのに。
それ故に私が真我に到達するのではない
この私が悟るのではなく、この私はいないのである。根源が生きておられるのである。悟るところの私とは錯覚なのである
私が悟り、到達し、成就するのではなくて、元々あった気づきが起こるのである
到達し、成就し、悟る私とは記憶が生み出した虚構であるのである。意識は悟りであり、意識とは悟ろうとはしない
既に悟っているからである。知覚するものは意識ではなく、知覚されるものも意識ではない。それらはマインドであるからだ。
意識はこのなろうとする虚偽の私を見守っていると言われているのである。
分割不可能な気づきのなかに、「それらの心」が現れているのだと
その私がいないという理解、若しくは悟りとは私がするのではなくて
その理解は元来あったものであって、起こったり去ったりしているものこそ、そのなろうとする観念の私であるといわれる
その理解とは既に在ったものであるからこそ、理解が内奥から起こり、大脳という受信器が変容し、理解が大脳に結合
している現在意識に顕れてくるのである
何故なら理解の起こる場は現在意識であり、現在意識が理解を受け取る為には脳がそれを受信する必要があり
脳は不可欠なのである
肉体側から見た場合の大脳は現在意識という意識の場であり、その大脳という場に現在意識が結合しているからである
その大脳が理解を受容出来るような「脳の条件付けの解除」という変容が脳に起きたとき
私が悟るのはなくて、その悟る私はいなかったと言うことの理解が大脳に顕れるのである。私はいなかったのだと。
それは肉体の死に於いて、「魂と諸体」が肉体を離れた後、再誕のサイクルのある瞬間に
魂本来の意識が諸体から解放され、意識本来の意識を、その意識が自ら意識されることで
現在意識はその分離不可能な自他を超えた一つの全体の意識であったことが理解されると言われている。
意識がその諸体と諸体の脳を身に纏ったがゆえに、意識は脳と繋がり現在意識となって制約され
たのであろう
夜、ベッドでの熟睡という、大脳の休眠中、思考なくして見ている意識の一部は大脳と結合しているので
大脳が眠っているのと同じく、現在意識は大脳の熟睡した状態に陥っているのだ。
同様に夢見時には脳・記憶(諸体の脳も含む)の潜在意識領域の一部が夢を見ているので、その夢が
大脳の現在意識部位によって知覚されるのだ
そして
大脳の状態に変容が起こる事によって、その脳に繋がれていた現在意識も変容する
その大脳の変容もその結果である現在意識の変容(純粋化・拡大化・万物との一体感)も気づきに
よって引き起こされたのだ
現在意識も大脳も、起こっている事の一部でもあるからなのだろう
だから
その変容とは私という脳の記憶やその「記憶自身である観察者」がする事柄なのではない
自我の目的や動機を持った意志や努力ではなくて、それらを使って自らを表現されている
意識からの働きかけによって、主体の内部から私という記憶や観察者の変容も起きているのだということだろう
「起こっているマインド」への直視・直覚とそして理解が大脳の変容をもたらすのではないか
その理解が起こるまでは私達にとっては正しい観念を保持し、虚偽の観念を遠ざけることが肝要ではないか
またその頭脳の変容は「自称○○神」や「自称・他称のブラフマン」「○○神の生まれ変わり」によってはもたらせない
脳内麻薬や変性意識状態によって一過性の疑似体験は引き起こせるが、その疑似体験による引き戻しで
さらなる現在意識の悪化を招くことだろう。そのようなトリックに引っかかってはならない。
悟ろうとし、至ろうとし、成就しようとすることの「記憶の反応」は根源によって起こっていることがらであるように
呼吸や血液の循環や消化や生殖と言った肉体に関わることも同じく根源から起こっていることだ
行為も記憶も、行為者も体験者も、そしてその記憶も、記憶である私に生み出すことは不可能である
記憶である私とは結果であるからだ。そしてそれを知覚する統覚機能の私も意識の一部分であるに過ぎない
同じ様に
思考や感情や如何なる想念や記憶も脳内のニューロンのネットワークも、脳内ホルモンも
この脳という素晴らしい心の送受信機と共に「私という記憶」や統覚機能による創作物ではない
それらは素晴らしく与えられ起こっている事なのであるのではないか
そしてそのそれらを思考し、観念し、私という分離した概念を生み出しているこのシステムも
「私という記憶」や統覚機能が生み出したものではない。統覚機能の私も記憶である私も結果であるからだ。
この自と他に分離している私こそが「同一で、自他に分割不可能な気づき」の中に表れているものなのだろう