ラマナ・マハリシの言葉
 
 

「あるがままに」        翻訳 福間巌     ナチュラルスピリット社
「ラマナ・マハリシとの対話」 翻訳 福間巌     ナチュラルスピリット社
 
                         から一部 紹介させて頂きました

「私はブラフマンである」
(私はブラフマンであると言明すること)は単なる想念にすぎない   

誰がそれを言うのであろうか?

それ自体(ブラフマン・真我)がそう言うわけではない。

それが(ブラフマン・真我)がそれを言う必要が有るだろうか?

真の「私」
(真我)もそういうことは出来ない。

なぜなら、「私」
(真我)はつねにブラフマンとして在るからである。

それを口に出して(または瞑想で)言うことは単なる想念にすぎない。

それはだれの想念なのか?

全ての想念は偽りの「私」
(根本第一想念である私と言う観念)、つまり非実在のもの

である「私という想念」から立ち現れる。考えることなしにとどまりなさい。



想念が有る限り恐怖もそこにあるだろう。
(私と言う観念=恐怖=私=無明)

私と言う想念が起こると共に恐怖も起こる。



「私はブラフマンである」は、他の想念を払い除ける集中のための一つの助けである。

一つの想念だけが優勢なときにそれが誰の想念なのかを見極めなさい。

それは「私」から起こった想念だと知られるであろう。

その「私という想念」はどこからやってきたのだろうか?

その中へと探り入りなさい。

するとその想念は消え去る。

そして至高の真我がそれ自身で輝き始めるだろう。



それから先は何の努力も必要ない。

一者である真の「私」だけが残ったとき、それが「私はブラフマンである」とは言わないであろう。

そこにはその実在性を疑う他者は存在せず、

それゆえ、「私はブラフマンである」と繰り返す必要はないのである。

無理なく自然に、一つの本当の「私」が一人で止まっているとき

「私はブラフマンである」ということはないでしょう。




熟睡の中には分離がない、

つまり分離限定は心によって現れたのだ。

熟睡の中には、心は存在していない

心は存在していなくとも真我は存在している。



自我(エゴ)を探り出すこと。

つまりその源を探求することで、自我(エゴ)は消滅し、後は真我だけが残る。



真我探求とは、あなたが、いまだに真我実現されていないと考えさせる、その障害を取り除き、

それによって真我実現へと導くのである。



瞑想とは自分の本性
から、決してそれることなく、

しかも自分が瞑想しているという感覚などないままに真我にとどまることである。



瞑想は想念が遠ざけられるという消極的な効果しか持っていない。


われわれは真我を忘れて身体と心を真の自己だと想像してしまう、


本来の姿であり至福が自然に現れ出でる前に、それらが
(第一想念・自我であるそれら)

立ち去らねばならない。



もしあなたが、身体の中の一カ所
(チャクラや松果体など)に注意を固定させたとすれば、意識の座

に関するいろんな意見も理論的なものとなってしまう。


あなたはあなた自身を主体あるいは見るものと見なし

あなたが注意を固定させた場所
(松果体などは)は対象となる。

是では単なるパーヴァーナ(精神的イメージ)にすぎなくなってしまう。

だがもし反対に、もし見る人自身を見れば

あなたは融合しそれと一つになる。

それがハートである。




誰もが「私は在る」ということに気がついている。

この自覚を脇にのけて、人は神を探し回る。

眉間に注意を集中させることが何の役に立つというのであろう?

神が眉間にいるということは全く愚かなことである。

このようなアドヴァイスの目的は精神集中を助けることにある。

どのセンターにあなたが集中しようと、それは問題ではない。

何故なら本当のハートはどのセンターにも、そして身体の外にさえも存在しているからである。

身体のどの部分にあなたが集中しようとも、

あるいは外側のいかなる対象物に集中しようとも、

ハートはそこに在る。



感覚器官によって知覚された対象物は直接的知識(プラティヤクシャ)と呼ばれる。

だが、感覚器官の助けもなく、常に体験される真我ほど直接的なものが他にあるだろうか?

感覚的知覚は間接的知識でしかなく、直接的知識ではありえない。

自己の覚醒のみが直接的知識であって、それは全ての人に共通した体験である。

自分自身の真我を知るためにはいかなる助けも必要とされないからである。





あなたとは誰か?

そして運命や自由意志を持っていると考えるその人とは誰なのかを見いださねばならない。


あなたとは誰か?

そして何故あなたはこの限定された身体を得たのであろうか

乗り物の動きをあなた自身の動きと誤って同一視したように、

あなたの行為もあなた自身のものではなく、神の行為なのである。

膨大な仕事を成し遂げたとしても、実際には彼
は何もしていない。

それ故、彼
の活動が心の平和と無為の道を妨げることはない。

何故なら全ての活動は彼
の存在の中でのみ起こり、彼自身は何もしないという

真理を知っているからだ。

それゆえ、彼
は起こっている全ての活動の沈黙の目撃者としてとどまるのである。



質問者:どうすれば他の人たちを問題や困難から救うことが出来るでしょうか?

ラマナ・マハリシ:この他者についての話は一体何だね-。

そこには一者しかいないのだ。

そこには私も、あなたも、彼も存在せず、ただ全てである一者の真我が在るだけである。

他者の問題が存在するとあなたが信じているのならば、真我の他に何かが在ると信じてい

ることになる。

外的な活動によって他者を助けるよりも、全てがひとつであることを悟る方が最上の助けである。

が破壊されたとき、

他の欲望
もまた破壊されるのである。




身体が通り抜ける全ての行動は、それが生まれたときに決定されているのである。

唯一あなたに与えられた自由は、心を内面へと向け、そこで活動
を放棄することだけである。




実際ヨーガとは他でもない、真我あるいは真理があなた
とは異なっているという考え

を止めさせることに過ぎない。



それは人々が長い間心に抱いてきた、自分は真我と異なっているという概念

を消し去ることを目的としている。



あなたとは異なった何かと合一すると言う意味での合一などあり得ない。

なぜなら、あなたは真我から離れたことなどなく、離れることなど

出来ないからである。



心が制御されたとき、呼吸も自動的に制御される。呼吸の制御をする必要はない。



あなたは身体ではない、それ故、あなたはカルタ(行為者)ではない。


全ての行為は自動的に起こるのだ。

あなた自身を行為者と見なしてはならない。


真我は行為に関心を持っていない。

真我は行為に関わらないことは明らかである。




あなたが自分を身体と同一視すれば、そこには名前と形がある。

だが、あなたが身体意識を超越するとき、「他者」もともに消え去る。


真我を実現した人は、世界を彼自身と異なったものとしてみていないのである。


交わるべき他の人など存在しない。ただ真我だけが存在しているのである。




超能力は自我(エゴ)があるときだけ現れる。

真我は自我(エゴ)を超えており、自我が廃止された後に実現される。

二つの種類のシディが存在する。その一つとは実現へ向けての障害となる。

マントラによって、

魔術的な効果を持った何かの薬によって、

厳しい苦行によって、

ある種のサマーディによって、

その力は獲得されると言われている、だが、そのような力は真我実現の助けにならない。

たとえそれらを得たとしても、あなたは無知のままにとどまるであろう。

もう一つの種類とは(正しいものとは)

それはあなたが真我を実現したときに自然と現れる力と知恵だ。

それは真我に到達した人の自然なタパス(霊的修練)から生じたシッディなのだ。

それは独りでに現れ、神から与えられたものだ。

それはその人の運命に従ってやってくる。





質問:自由意志というものは存在するでしょうか


ラマナ・マハリシ:誰の自由意志だろうか?


行為者であるという感覚が有る限りは、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚は存在するだろ

う。

だがもしこの感覚がヴィチャーラ(真我探求)の修練によって失われたなら、

聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう、ジニャーナによって運命は克

服される。

真我の知識は自由意志も運命を超えているからである

何であれこの身体がすること、この身体が通り抜ける体験は、

その身体が存在を顕したときに既に決定されているのである

人が出来る唯一の自由とは努力をしてジニャーナを得ることである。

それが彼と身体との同一化を絶ちきる。

身体はプラーラプダによって宿命づけられた、避けることの出来ない行為を通り抜けていくだ

ろう。

人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、

あるいは

それから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるかという選択の自由だけをもっているのであ

る。



心が、絶えずその本性を識別し探究すると、心というものはない、ということが知られるようになる。

外へ向けられた心は、想念と対象物に帰着するが、内に向けられた心はそれ自らで、真我になる



言葉がどうやって起こってくるのか考えてみよう。

抽象的な知識がある。

だが、そこからエゴが生じる。

そのエゴはつづいて想いを生じさせ、想いは語られる言葉になる。

言葉はだから、原初の源の曾孫にあたる。そのような言葉が、ある効果を生み出しうるならば、

考えてもみよ、

沈黙をとおして語ることは何層倍も強力なものではなかろうか!

けれども人々は、この単純な裸の真理、彼らの日々の真理、つねにそこにあり永遠の経験で

あるものを理解しない。

この真理とは、自己の真理のことである。

自己を知らない人がどこにいよう。

それなのに人々は、この真理を耳にすることさえ好まない。

彼らは、彼方にあるものや天国、地獄や再生については熱心に知りたがる。・・・・・・

彼らは不思議を愛しており、真理を愛してはいないので、

宗教は、結局は彼らを自己の周辺に連れてゆく程度のものしか提供することができない。

どのような方法を採るにせよ、あなたは結局は自己に帰ってゆかねばならない。

そうであるなら、なぜここで今、自己の内に住まないのか。

どんな重荷がかかろうとも、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを

動かしてゆくのに、われわれはなぜその力に身をまかせないのだろうか。

なぜわれわれは、何をどうすべきかと思い悩み、何をどうすべきではないかを思い悩むのだろ

うか。

われわれは、汽車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。

汽車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。

荷物をおろして安心しなさい。



人は、深い帰依の感覚なしに、ただ機械的に表面的に神の御名を使ってはならない。

神の御名を使うためには、人は熱望と率直な自己放棄をもって求めねばならない。

その放棄の後にのみ、神の御名がその人とともにある。



あなたの務めは、在ることであり、これであったりあれであったりすることではない。

「私は私であるものである」ということが、すべての真理の要諦である。

その方法は「静かであること」に尽きる。では静寂とは何を意味するのだろうか。

それは「あなた自身を打ち壊す」ことを意味する。

なぜなら、すべての名前と形が困難の原因だからである。


「私-私」が自己である。「私はこれこれである」というのがエゴである。


「私」が「私」のみを保ちつづけるとき、それは自己である。

それが突然に脇道にそれて「私はこれであり、あれであり、これこれである」と言うとき、それ

はエゴである。



沈黙は最も力強い仕事の形である。

聖典がどんなに広大で、どんなに力をこめて説いているとしても、結果においてはその力は衰

える。

静寂であり恵みであるグル(師)は、すべてに浸透する。

この沈黙は、すべての聖典を集めたものより広大で、力強いものである。

自己実現した霊の力は、すべてのオカルトの力より遥かに強力なものである。

聖者の内にエゴがなければないほど、彼にとって「他者」というものはない。

あなたに与えられうる最高の利益とは何だろうか。それは幸福である。幸福は平和から生まれる。

平和は障害物のないところにだけ行きわたることができる。

障害は、心の内に起こる想いによって生じる。

心そのものが空になるとき、完全な平和があるだろう。

人は、その心を絶滅しないかぎり、平和を得ることも幸福を与えることは出来ない。

心を持たない聖者にとって「他者」というものはないにもかかわらず、

彼の自己実現という事実そのものが「他者」をじゅうぶんに幸福にするのは、そういう理由から

である。

これはまた、あなたのことでもある。

本当は、あなたがみじめで不幸であるべき理由は何もない。

あなたは自分で、本来無限定の存在であるあなたの性質に制限を課してしまっている。

そして自分が限定された生きものにすぎないことを泣いている。

あなたは、そのありもしない束縛を越えるために、どんな方法でもいいからサーダナ(修行)を

しなさい。

けれども、あなたのサーダナそのものが束縛性を帯びているのなら、束縛を越えることなどで

きるものではない。

私がこう言うのだから、あなたは本当は無限定の純粋な存在であり、絶対の自己であると知

りなさい。

あなたはつねにその自己であり、自己以外の何ものでもない。

それゆえに、あなたは、本当はけっして自己について無知ではありえないのである。

あなたの無知は、単なる形式上の無知であり、いなくなった十人目の男についての十人の愚

かな者と同じような無知である。

嘆きをもたらしたものは、この無知である。

真実の知識とは、あなたに新しい存在を作り出すのではなくて、ただあなたの「無知な無知」を

ぬぐい去ることであると知りなさい。

至福は、あなたの本性につけ加えられるものではない。

それはただあなたの真実で自然の状態として、永遠で不滅の状態として現われる。

あなたの嘆きを乗り越える唯一の道は、自己を知り自己であることである。

どうしてこれが到達不可能なことだろうか。



マウナ(沈黙)はイシュワラ・スヴァルーパ(神の自己)である。

それゆえ聖典は「至高のブラフマンの真理は、沈黙の言葉によって現される」と言っている。

放棄そのものが、力強い祈りである。

あなたが、神はあなたがしてほしいことのすべてを為してくださると信じるなら、

あなた自身を彼に放棄せよ。さもなくば、神のことはさておき、あなた自身を知るがよい。

熟していない心が彼の恵みを感じないとしても、それは神の恵みがないことを意味してはいない。

なぜなら、神がときどき慈しみがなくなるということは、神であることを中止することだからである





弟子 どうすれば自己実現できるのでしょうか?

マハリシ: 実現というのは、新しく獲得される何かではない。

それはすでにそこにある。

必要なことのすべては「私は実現していない」という想いを追い払うことである。


静かさあるいは平和が実現である。

自己が存在しないときは、一瞬たりともない。

疑いや非実現という想いがあるかぎりは、それらの想いを追い払う試みがなされるべきである。

それらの想いは、自己と非自己を同一視することによって起こってくる。

非自己が消えれば、その後にはただ自己だけが残される。

場所が必要ならば、狭くなくすればそれでじゅうぶんである。よそから場所を持ってくる必要は

ない。





弟子 どうやって自己に到達できましょうか?

マハリシ: 自己に到るということはない。

自己がもし到られるべきものならば、それは今ここにはなく、やがて得られる何かを意味する

だろう。

新しく得られるものはまた、失われるものでもある。それは永遠のものではない。

永遠でないものに努力する価値はない。

それゆえに、自己は到るものではないと言うのである。

あなたは、自己である。あなたは、すでにそれである。

事実は、あなたは自分の至福に満ちた状態について無知だということだ。

無知は次から次へと続き、至福である自己にヴェールをかける。

努力はただ、この悪い知識である無知のヴェールをはぐことに向けられればよい。

悪い知識とは、自己と身体や心などを誤って同一視することである。

この偽りの同一は去らねばならぬ。そうすればただ自己のみがそこに残る。

それゆえ、実現はすべての人おのおののものである。

実現は、それを願う人々の問に差別をつけない。

あなたが実現できるかという思いそのもの、自分は実現していないという考えそのものが障害

である。

このような障害物からも自由になりなさい。




弟子 サマーディ(三昧)は何かの役に立つものでしょうか? また、サマーディにあっては何か

の想いが存在するのでしょうか?

マハリシ: サマーディだけが真理を示すことができる。想いは、実在にヴェールを投げかける。

それゆえに、サマーディ以外の状態にあっては、実在が実現されることはない。

サマーディにあっては「私は在る」という感覚だけがあり、想いはない。

「私は在る」という経験は、静かであることである。



弟子 私がここで得るサマーディあるいは静かさの経験を、どうすればくりかえすことができま

しょうか?

マハリシ: あなたの今の経験は、あなたが自分自身の内に見いだした雰囲気の影響による

ものである。

あなたはその雰囲気の外で同じことを経験できるかね。

経験は突発性のものである。それが永遠になるまで実修が必要である。

弟子 サマーディを実現すると、シッディ(超能力)をも得るのではないでしょうか?

マハリシ: シッディを見せるためには、それを認めてくれる他者がいなければならない。

つまり、シッディを見せびらかすような人の内には、 ジュニャーナはない。

それゆえ、シッディは考える価値のないものである。ジュニャーナのみが目指されるべきであ

り、得られるべきである。



弟子 私が実現すれば他者の助けになるでしょうか?

マハリシ: そうだ。そしてそれが、あなたが他者に対してできる最上のものである。

大いなる真理を見いだした人々は、自己の静かな深みにあってそのようにしてきた。

実現した人々は、ただ自己のみを見るからである。

それはちょうど金細工師が、金でできたさまざまな宝の値踏みをしながら、ただ金だけを見て

いるのと同じである。

あなたが自分を身体と同一視するとき、名前と形がそこにある。けれどもあなたが、その身体

意識を越えるときには「その他のもの」もまた消え去る。

実現は、世界を彼自身と異なったものとしては見ない。




弟子 聖者が他の人々と交わるのは、よいことではないのではないでしょうか?

マハリシ: 交わる「他者」というものはない。自己は唯一の実在である。


弟子 苦しみに満ちた世界を救おうとしてはいけないのでしょうか?

マハリシ: あなたを創造した力が、同じように世界を創り出してきたのだ。

その力があなたの世話をすることができるならば、同じように世界の世話をすることができる

だろう。

神が世界を創造なさったのであれば、その世話をなさるのは神の仕事であり、あなたの仕事

ではない。



弟子 愛国者であることは、私たちの務めではないでしょうか?

マハリシ:あなたの務めは、在ることであり、これであったりあれであったりすることではない。

その方法は「静かであること」に尽きる。

では静寂とは何を意味するのだろうか。それは「あなた自身を打ち壊す」ことを意妹する。

なぜなら、すべての名前と形が困難の原因だからである。

「私ー私」が自己である。「私はこれこれである」というのがエゴである。

「私」が「私」のみを保ちつづけるとき、それは自己である。

それが突然に脇道にそれて「私はこれであり、あれであり、これこれである」と言うとき、それ

はエゴである。



弟子 それでは神とは誰でしょうか?

マハリシ: 自己が神である。

「私は在る」が神である。

神がもし自己以外のものであるなら、彼は自己のない神であるにちがいなく、それは不条理で

ある。



自己を実現するために必要なことのすべては、静かに在ることである。

それ以上簡単なことがあるだろうか。アートマ・ヴィディヤ(自己探究)はだから、最も簡単な道

である。



創造もなければ破壊もない。運命もなければ自由意志もない。

道程もなければ成就もない。これが究極の真理だ。

この身体の内に「私」として立ち現れるものが心である。

自分の身体のうちのどこに、まず「私」という想いが現れるか調べてみると、

それは自分のハートであることが知られるだろう。

そこが心の起源の宿る場所である。

人が、絶えず「私」「私」と考えていると、いつしかその想いはハートに集められてゆくだろう。

他の想いはその後にやってくる。



「私は誰か」と尋ねることによって

「私は誰か」という想いは、他の全ての想いを破壊するだろう。

燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、

やがては「私は誰か」というその想い自身も滅ばされてしまう。

そうすれば自己実現がやってくるだろう。



他の想いがやってきたときには、その思いを追いかけることをやめ

「その想いは誰に起こってきたのか」と尋ねるとよい。

どんな想いが起ころうとかまいはしない。

想いが起こるたびに「その想いは誰に起こってきたのか」と勤勉に問い続けるのだ。

その問いに対する回答は「私に」であるに決まっている。

そこで、「私は誰か」と問えば、心は源へ引き戻され、現われ出た思いは静かになる。

この方法をくりかえし実修することにより、心はその源にとどまる術を見いだすだろう。



微細である心が頭脳や感覚器官を通して外部へ出ると、

粗大なものである名前や形が立ち現れる。

心がハートの内にとどまっていれば、名前や形は消えてしまう。

心を外に出て行かせず、「内在性」と呼ばれているハートの内に留めておきなさい。


心がハートの内に留まっているときには、

すべての想いの源である「私」は去り、常在の自己が輝くだろう。

人が何をするにしても、「私」というエゴ性なしにそれをしなければならない。

すべてのことをそのように行えば、すべてはシヴァ(神)の本性としてあらわれるだろう。



質問者:輪廻転生は真実でしょうか?

マハルシ:無知が存在するかぎり、輪廻転生は存在します。

本当は、輪廻転生などまったく存在しません。いまも、いままでも、そしてこれからも。これが真

理なのです。



質問者:ヨーギ(ヨガ行者)は過去世を知ることができるのでしょうか?

マハルシ:あなたは過去を知りたがっている現在の人生を知っているのかね? 

現在を見いだしなさい。そうすれば他のことは明らかになるでしょう。

現在のこの限られた知識にあってさえ、こんなにも苦しんでいるというのに、

なぜより多くの知識の重荷を自分に背負わせなくてはならないのか? もっと苦しむためかね。

至高の真我から見れば、この蜃気楼(しんきろう)のような世界のなかで生を授かるという幻

想は、「私」と身体との同一化という利己的な無知以外の何ものでもない。

真我を忘れ果てた者たちは、生まれては死に、死んでは再び生まれることだろう。

だが、至高の実在を実現して心が死に果てた者は、生死を超えた実在のなかだけにとどまる。

真我を忘れて身体を真我と想いなし、果てしなく誕生を繰り返し、そしてついに真我を知って真我

に成るということは、世界中を放浪した夢から覚めるようなものだ。



質問者:死後に再誕生するにはどれほどの時間がかかるのでしょうか?

      それは死後すぐに起こるのでしょうか、それともいくらかの時間が経ったあとに起こる

のでしょうか?

マハルシ:あなたは生まれる前あなたが何だったのか知らない。

それなのに、死んだあとあなたが何になるか知りたがっている。あなたは今のあなたが何なの

か知っているのかね?

誕生と再誕生は身体に関わったものだ。

あなたは真我と身体を同一視している。その同一化が誤りなのだ。あなたは身体が生まれ、そ

して死ぬと信じている。

そしてその身体に関わる現象を真我と混同しているのです。何よりも、あなたの真の存在を知

りなさい。

そうすればこのような質問は起こらないだろう。

誕生と再誕生について語られるのは、ただ、あなたがこのことについてよく調べ、誕生も再誕

生も本当は存在しないという真理を見いだすためである。それらは身体だけに関わり、真我

には誕生も再誕生もない。

それゆえ、真我を知りなさい。そして疑いに惑わされてはならない。



質問者:行為はその人の来生に影響を及ぼすのではありませんか?

マハルシ:あなたは今生まれたのかね? なぜ来生について想いをめぐらすのか? 

生も死も存在しない。それが事実である。自分は生まれたと考える者に、死について考えさせ

ればいい。



質問者:「私は神である」という想念は役に立ちますか。

マハルシ:私はある( I AM )というのは神です──想念ではありません! 

私はある!をよく理解し、「私は……である」を考えないようにしなさい。

それを知りなさい、それを考えてはいけません!

私は「私がある」ということだ( I am that I am )」とは、人が「私」としてとどまらねばならない、とい

うことを意味します。

人はいつもその「私」であるだけで、他の何ものでもありません。




質問者:われわれは「私はエゴではない」と考えるべきでしょうか。

マハルシ:(回答の後半)エゴを取り除くのは、ただ想念によってではなく、経験によって行なう

のです。

想念のない状態を、深い眠りの中にいること、あるいはトランスとみなさないようにしなさい。(

中略)実在でありなさい。

そして「私はブラフマンである」と千回以上繰り返しつづけることに時間を浪費しないようにしな

さい。

エゴはそれ自身の現実の源を知ろうと努力しつづけるにちがいありません。



質問者:あなたは、われわれがその内部に神的な中心を見いだすであろうと言われます。

     もし個々人が中心をもつならば、何百万という神的中心があるのでしょうか。

マハルシ:円周をもたないただ一つの中心だけがあります。内部に深く潜り、それを発見しなさ

い。

かれ あるいは 見る者、つまり真我に対して瞑想すれば、すべてのものがそれに変えられる「

私」という心のヴァイブレーションが生じます。「私」の源をたどれば、原初の「私は私」(真我)

だけが残ります。これは言い表せないものです。




質問者:どのようにして心がハートの中へ潜りこむのですか。

マハルシ:(回答の後半)すべての教典は、たんにわれわれを原初の源へと引き返させようと

するつもりで書かれているのです。

なんらかのものを獲得する必要はありません。

われわれは偽りの観念と無益な付加物を放棄することだけをしなければならないのです。

これをする代わりに、どこかほかの場所に幸福がころがっていると信じて、われわれは何か

奇妙なミステリアスなものをつかまえようと試みます。それは間違いです。もし人が真我として

とどまっているならば、そこに至福があるのです。

人びとはおそらく、静かにしていることは至福の状態をもたらさないと考えているのです。

それは、彼らの無知のためなのです。唯一の修練は、誰のところにこれらの質問が生じてい

るのかを見つけだすことです。


質問者:聖者も、その過去のカルマが現在の活動の源になっているわけですが、彼の現在の

活動によって起こる印象 (ヴァーサナ)は、未来においてやはり影響力を持つものでしょうか?

マハルシ:すべての潜在的傾向性(ヴァーサナ)から自由になった人だけを、聖者と言うのです。

活動性にまったく影響を受けない者が、どうしてカルマに縛られようか。



質問者:ブラーマチャリアの意味は何でしょうか?

マハルシ:ただブラフマンを探究すること、

そのことのみがブラーマチャリアと呼ばれるべきである。



質問者:人生の四住期(アーシュラマ)に従ってブラーマチャリアを実践することは、知識を得る

方法でしょうか?

マハルシ:学生期(ブラーマチャリア)には、感覚の制御等の知識のためのさまざまな方法が課

されているので、学生期の者(ブラーマチャーリン)がそれを正しく実践することは、進歩のため

に大変役立つものである。


質問者:人は、学生期(ブラーマチャリア)からいきなり苦行期(サンニャーサ)に入ることができ

るのでしょうか?

マハルシ:その資格のある人は、ブラーマチャリア等の決められた道を形式的に歩いてゆく必

要はない。

自己を実現した人には、人生の四住期の区別はない。どの住期も、彼の助けにはならず妨げ

にもならない。



質問者:修行者(サーダカ)が、カーストや四住期の決まりを無視すると、失うものがあるでしょうか?

マハルシ:知識を達成すること(アヌシュターナ)は、他のすべての行いの至高の目的である。

四住期のいずれかにあり熱心に知識を求める人にとっては、その住期に定められた規則に従

わねばならぬということはない。

カーストや四住期の規則に従うことは、世間の良識に従うということである。

それを守ったからとて何の恵みもないが、破ったからとて失うものは何もない。


訪問者が聖典を研究する事によって真実が明らかになるかを尋ねた。

マハリシ:それは十分ではないでしょう。

質問者:何故ですか?

マハリシ:サマーディのみが真実を明らかにします。想念は実在の上にヴェールを投げかけ、

サマーディの状態より他には真実は明らかにならないからです。


質問者:サマーディにおいて想念は存在しているのでしょうか? あるいは存在していないの

でしょうか?

マハリシ:「私は在る」という感覚だけが存在し、ほかの想念は存在していません。

質問者:「私は在る」というのは想念ではないのですか?

マハリシ 自我のない「私は在る」は想念ではありません。それは悟りです。 「私」の意味や趣

旨は神です。

「私は在る」の経験は静である事です。



(ヨーガの8段階目)
「サマーディ」−前述の瞑想の成就の結果として、心は「私はかくかくである、 私はこれこれを

しようとする」という考えを抱くことなく、瞑想の対象の中に分 解される。

「私ー私」という想念さえ消えうせたこの微細な状態がサマーディである。

もし人が、眠りが誘発されないよう注意して、これを毎日実行するならば、神は間もなく、心の

安らかさの最高の状態を人に授けるだろう。


(ジュニャーナ・ヨーガの8段階目)
「サマーディ」ー「私」という顕現もまた消えた時、(微細な)直接の経験が現 れる。これがサマ

ーディである。

質問者:聖者は聖典(シュルティ)から何を学ぶのでしょうか?

マハリシ: それらの聖典に述べられている真理の具現者である聖者には、それらは何の役

にも立たない。


質問者:教養のある人はグル・クリパ(グルの恵)の必要がないという意味で、光明に対して必

ずしも有利ではないのではないでしょうか?

マハリシ: 教養がある者といえども、無学な聖者の前に頭を下げねばならない。


質問者:知識とは何でしょうか?

マハリシ: それは存在ー意識の静まり返った状態であり、それを熱望する者によって経験され

るものであり、波一つない海のようなものであり、動かぬエーテルのようなものである。


無知を離れて知識はないし知識を離れて無知はない。この知識と無知を持っているのは誰か。

両方の基礎である真我を知る知識が本当の知識である。


知識の源である真我を知ることなく、その他のすべてを知ってもそれは無知ではないだろうか。

それは知識でありうるだろうか。

知識と知識の対象の基礎である真我が知られたとき、無知と知識は存在することをやめる。


知識でも無知でもないものが(本当の)知識である。知るべきあるいは 知られるべきほかの

何物も存在することなしに、光り輝く真我が知識である。

それは無ではないことを知れ。


知識である真我はそれだけで真理である。多様性をもつ知識は無知で ある。この無知はーそ

れは非実在であるがー知識である真我を離れては存在しない。

多様な金の装飾品は、その素材である金を離れて実在性を持つだろうか。


世界とはあなたの心の結果なのです。あなたの心を知りなさい。次に世界を見なさい。あなた

はそれがあなたの真我にほかならぬことがわかるでしょう


すべてのものに浸透している一者、あなたが本当はそれである霊に対して「行く」も「来る」もあ

るわけはなく、いかなる行動もあるわけがない。

あなたはつねに、これまであなたが在りつづけたそこにある。


覚者には真我だけが実在であり、行動は現象にしか過ぎず、真我に影響することはないのです。

行動するときにも、行為者であるという感覚を持っていません。彼の行動は本然のもので、執

着なく自己の行動を見つめています。


よく気づいたままでとどまりながら努力のないことが至福の状態なのです。



われわれは、やがては真我を達成するか、神に到達すると話す。しかし、達成するものは何も

ないのだ。

われわれはすでに真我として存在しているし、また今よりも神にいっそう近づいているときは決

してないだろう。

われわれはつねに喜びに満ちており、真我として存在しており、無限の今なのだ。

われわれの意識は途切れることなく、連続的で、永遠なのだ。

今われわれがそうではないと思うのは、すべてマーヤであり、自己催眠なのだ。

あなた自身を催眠状態から目覚めさせなさい!

今に気づいている人と将来いつか気づくようになるであろうより高次のもの、神という二つの自

己があると思い違いしているのはエゴなのである。

これは間違いなのだ。

ただ一つの真我だけがあり、それは今もいつまでも十分に気づいている。それにとっては過去

も現在も未来もない。それは時間の範囲外にあるのだから。



質問者:絶えず神に自分を明け渡そうという欲望を持ち続ける事で、より多くの恩寵が体験出

来る事を私は期待しています。

マハルシ:きっぱりと明け渡し、欲望を捨て去りなさい。

「私が行為者である」という感覚を持ち続けている限り、欲望は消えないだろう。それはまた、

人格でもある。

これが去れば純粋に輝く真我を見るだろう。行為そのものではなく、行為者であるという感覚が

束縛なのである。

「静かになりなさい。そして私は神だと知りなさい」。この(聖書の)言葉は、この場合の「沈黙」

が個人という痕跡を残さない完全な明け渡しであることを意味している。

沈黙が支配したとき、心の動揺も消え去る。心の動揺が欲望、行為者という感覚、人格の原因

である。

それがやんだとき、静寂がある。この文脈では「知ること」とは「在ること」である。

それは知識、知るもの、知られるもの、という3つの位相をともなう「相対的な知識」とは異なる。

…中略…

質問者:明け渡しだけでも十分に真我に到達出来るのでしょうか?

マハルシ:自己を明け渡すことだけで十分だ。

明け渡しとは自分自身を自己の原因の源に放棄することである。

そのような源があなたの外側にいる神だと想像することで自分を欺いてはならない。

あなたの源はあなたの内側にある。つまり源を探し出し、その中に溶け去ることが明け渡しである。



アシュターヴァクラ・ギーターより抜萃

「世界が私の中に現れるとき、それはただの幻にすぎない」

「あなたは既に満たされているのだ。あなた自身を溶かし去りなさい」

「世界はマジックショーだが、私には何一つ受け容れるものはなく何一つ手放すものもない」

「何であれ、心が知覚するものに魅せられたときあなたは束縛されている。

何ものにも魅せられることがなければあなたは自由だ」

「あなたは一なるもの純粋な気づき

世界は実在ではない、それは冷たくて生命をもたない

無知もまた実在ではないならば、いったい何を知りたいというのか?」

「世界とそのすべての不思議も無に等しい。それに気づけば欲望は溶けさる

あなたは気づきそのものだから」

「思考の彼方なるものについて考えることはいまだに考えでしかない

私は思考を手放したそして、私はここに在る」

「あなたは、純粋な気づきすべてのものごとを見守る観照者なのだ

世界はただの幻にすぎない放棄することを放棄しなさい!

何も拒んではならないし、何も受け入れてはならない。

静かにありなさい。だが、何よりも幸せでありなさい。

ただものごとをあるがままに知ることで、あなたは自己を見いだすだろう」


【私】は知る者ではなく、知られるものでもなく、知ることでもない

これら三つは実在しない、ただ本来の自己を知らないから、そう思えるだけ。【私】は完全無欠

なのだ


一から二が生まれる!これが苦しみの根源だ。【私】は二のない、一なるもの、純粋な気づき

、純粋な歓喜だ

全世界は仮の姿でしかない、ただそれだけを悟りなさい、それ以外に救われる道はない!


無知ゆえに、かつて私は束縛されていると思いこんでいた

だが【私】は純粋な気づき。全ての区別を超え、永久の瞑想に生きる


【私】には束縛も解放もない、夢まぼろしは消え失せた!

全ては根拠のないことだったのだ。

森羅万象は、私のうちに在りながら、何の拠り所ももたない



身体は無、世界は無だ、これを完全に理解するとき

どうしてそれらを想像から生みだし続けることができるだろう?


なぜなら、アートマ(真我、内在する神、真の私)は、純粋な気づきに他ならないのだから

心は これを欲しがったり、あれを嫌ったり、これにしがみついたかと思えば

あれをはねつけたりする、今、怒ったかと思えば、すぐ喜んだりする、こうして、あなたは束縛さ

れるのだ



だが、心が何も望まず、何も拒まないとき。喜ぶこともなく、怒ることもないとき

何も好まず、何も嫌わないとき、そのとき、あなたは自由だ

何であれ、心が知覚するものに魅せられたときあなたは束縛されている

何ものにも魅せられることがなければ、あなたは自由だ



『私』がなければ、あなたは自由だ。『私』があるとき、あなたは束縛されている

このことを見極めなさい。それは容易い。何にもしがみついてはならない、何も拒んではならない

以上アシュターヴァクラ・ギーターより抜萃



太陽の前に暗闇が存在しうるだろうか? 同様に、自ら輝き、自らが明らかなアートマ(真我、内在

神、真の私)の前に無知が存在しうるだろうか?

もしあなたがアートマを知れば、そこには暗闇も無知も、苦しみも存在しないだろう。不幸を感

じるのは心である。

暗闇は来ることも去ることもない。

太陽を見なさい。そうすれば、そこに暗闇はない。それと同じように、アートマを見なさい。する

と、そこには無知はないことを見出だすだろう

 
言語は人の想いを他の人に伝達するための媒体にすぎない。

それは想念が現れたあとにのみ呼び起こされる。

「私」という想念が立ち現れたあとに、他の想念は続く。

それゆえ、「私」という想念が全ての会話の根源と言えよう。


思考のない状態にとどまるとき、ひとは沈黙という普遍の言語によって他者を理解するのである。
(注:それは思考や想念ではない)

沈黙は絶えず語っている。

沈黙は話すことによって妨げられてきた、絶え間のない言葉の流れである。

私が今こうして話しているこれらの言葉が、その沈黙の言語を妨げている。


たとえて言えば、ここに電流が電線を伝わって流れている。その経路に抵抗を与えること

によって、それは電灯として輝き、扇風機として回る。電線の中ではそれは電気エネルギー

として留まっている。 

同じように沈黙も永遠に流れる言語であり、言葉によって妨げられているのである。

何年にも及ぶ会話でも知ることが出来なかったことさえ、沈黙の中では一瞬にして知られうる。

ダクシナームルティーとその4人の弟子たちはこの物語のこの良い例である。これが最高の、

そして最も効果的な言語である。



グルは身体的形態ではない。

それゆえグルの身体が消滅した後も心の繋がりはそのまま残る。

グルが死んだ後、別のグルのところに行くことも出来る。

だが、全てのグルは一つであり、その中の誰一人として身体である者はいない。

それゆえ、常に精神的な繋がりが最上である。恩寵の最高の表れは沈黙である。そしてそれ

は最高のウパデシャ(教え)でもある。

グルの沈黙は最も大きな声でのウパデシャ(教え)なのだ。

それはまた恩寵の最高の表れでもある。

他の全てのデクシャは沈黙という源から由来しており、それゆえ二次的なものだ。

沈黙がその原初の姿である。グルが沈黙していれば、弟子の心は自動的に浄化される。

沈黙は絶えることのない言葉である。

          

声に出した言葉は沈黙の言葉を妨害してしまう。

沈黙のなかでは、人は周囲との親密な接触の内にある。

ダクシナームルティーと沈黙の力は4人の弟子達の疑いを取り払った。

「マウナ・ヴァーキャー・プラカティータ・タットヴァム」とは「沈黙によって説かれた真理」を

意味している。沈黙は真理の教えである。沈黙とは、実に強力なものである。


         
音声による言葉には器官が必要だ、そしてそれが言葉に先行する。だが沈黙の言葉は

想念さえも超えている。

それはつまり、話された言葉も、話されない言葉(パラー・ヴァーク)をも超えているのである

沈黙は真の教えである。


          
それは完全な教えである。

それは最も熟達した探求者にのみふさわしい。

他のものにとって、それからインスピレーションを引き出すことは不可能だ。
          

それゆえ、彼らは真理を説明するために言葉を必要とするのである。

だが真理は言葉を超えている、それは説明を許さない。

          
言葉に出来ることは、ただそれを指し示すだけである。

自己は「私」という思いが絶対にないところにあるものである。

それは「沈黙」と呼ばれている。自己そのものが世界であり、自己そのものが「私」である。す

べてはシヴァであり、自己である。

あるがままのあなたでありなさい。



天から降りてくるような物など何もない。

必要なのは自我を失うことだけだ。

何を待つというのか。

「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、

何かを得ようとする欲望は、すべて自我の作用である。

考えることは、あなたの真の本性ではないのだ。」


起こるべく定められていることは、起こるだろう。

あなたが仕事を離れるべく定められているのであれば、

仕事はいくら探しても見つからないだろう。

反対に、あなたが仕事を続けるべく定められてあれば、

それを避けることはできないだろう。

あなたはその仕事を続ける以外にない。

あるがままのあなたでありなさい。

天から降りてくるような物など何もない。

必要なのは自我を失うことだけだ。

何を待つというのか。

「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、

何かを得ようとする欲望は、すべて自我の作用である。



考えることは、あなたの真の本性ではないのだ。

それゆえに、より高い力にそのことを任せなさい。




真我についての五つの頌

1:肉体を真我と間違って、真我をなおざりにし、数え切れない出生を通じて生きていく彼は

 夢の中で世界中をさまよい歩く人のよう、こうして真我の実現は唯夢の中の放浪から目覚め

 るようなものだ


2:自分自身で「私は誰か」「私はどこにいるのか」と訊ねる人は、その間中ずっと真我として存

 在しているのだが、それは自分自身の身元と居所について尋ねる酔っぱらいと同じようなものだ


3:実際には肉体は真我のなかにあるけれども、真我は知覚力のない肉体の内部にあると考

 える彼は、

 映画のスクリーンの布地までもが画像の中身として入っていると見なす人と同じようなものだ


4:装身具はそれらが作られる素材としての金から離れて存在しているだろうか、

  肉体は真我から離れて存在できるのか

  肉体を彼自身と考える彼は無知な人である。彼自身を真我と見なす彼は真我を実現し悟った

 人である。


5:一つの真我、唯一の実在だけが永遠に存在する。

  太古の昔ダクシュナムルティとして現れたあなたでさえ、

  ただ沈黙によってのみそれを伝え得たというのに誰がそれを言葉によって伝えることができようか



私は誰か? Who am I?

生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないことを願っている。

誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られる。そして幸福だけがその愛の

源なのである。それゆえ、人間の本性である幸福、想念のない深い眠りのなかで体験さ

れる幸福を手に入れるために、人は自分自身を知らねばならない。そのためには、「私は

誰か?」という問いで探究する知識の道が最も重要な方法である。

 

「私は誰か?」 私は純粋な気づきである。この気づきの本質は、存在―意識―至福で

ある。

 

もし知識の道具であり、すべての活動の基盤である心が静まれば、客観的現実である

世界の現れも消え去る。ある人が夕闇の中で見たロープが蛇に見えて恐れを抱いた

という古い逸話がある。ロープの中に蛇の姿の幻影を見ているかぎり、ロープそのも

のを見ることはできない。それと同じように、幻でしかない世界の現れを客観的現実

ととらえているかぎり、その中に幻影が現れる真我の真の本質を見ることはできない

のである。

 

「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。心はすべての想念を

起こさせる源である。想念がなければ心のようなものは存在しない。それゆえ、想念

が心の本性である。想念がなければ世界と呼ばれる独立した実体は存在しない。深い

眠りのなかに想念はなく、世界もない。クモが自分のなかから糸を出し、それをまた自

分のなかに引き入れるのと同じように、心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身

のなかへ還元させる。真我のなかから心が外に出るとき、世界が現れる。それゆえ、世

界が現れているとき、真我は現れない。真我が輝いて現れるとき、世界は現れない。

人が絶え間なく心の本性を探究しつづけるならば、心は真我をあとに残して死滅する

だろう。「真我」と呼ばれているものは、アートマンである。心はつねに何か粗大なもの

に依存することによってのみ存在する。それはひとりであることができない。微細身あ

るいは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。



身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなかのどこに「私」と

いう想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハートのなかに現れることが発見さ

れるだろう。そこが心の起源となる場所である。絶えず「私」、「私」と考えても、人はそ

の場所に導かれていくだろう。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れる

のは「私」という想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。



「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている

薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅

ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。


他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起こったのか?

」と尋ねるべきである。どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。想念が起こるた

びに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究すべきである。それに対して

現れる答えは「私に」だろう。そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き

戻され、起こった想念は静まるだろう。

 

このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。微細な心が脳

や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。心がハートのなかにとどま

っていれば、名前と形は消え去る。心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは

、「内にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。心をハートから外へ出させることは、「

外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。このように、心がハートのなかにとど

まっているとき、すべての想念の源である「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝き

だす。

 

探究以外に心を永久的に静める適切な方法はない。他の方法で心を静めても、心は制

御されたように見えるだけで、再び勢いを増して現れるだろう。呼吸の制御によっても

心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だけのことであり、呼吸が元に戻

れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆りたてられてさ迷いだすだろう。

 


神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通して、心は一点に集中される。心はつね

にさ迷いつづけるだろう。鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように

、心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。心が

無数の想念へと拡散しているとき、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。だが、

想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。そのような心にとって、真我

を探究することは容易になるだろう。すべての規則制限のなかでも、適度な量の清らか

(サートヴィック)な食事を取るという方法が最上のものである。これを守ることで、心の

清らかさは増し、真我の探究の助けとなるだろう。



たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は罪人だ。どうすれば救われるだろう?」

と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真

我への瞑想に強烈に集中するべきである。そうすれば、確実にうまくいくだろう。

 


心は世間のものごとや他の人びとに関することへとさ迷いでぬよう、戒められなけれ

ばならない。他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければ

ならない。欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。人が他の人びとに与える

すべては、実は自分自身に与えているのだ。もしこの真理が理解されるなら、人びとに

施しをしないでいられようか。自己が現れると、すべてが立ち現れ、自己が静まればす

べては静まる。謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現れるだろう。心が静

寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。



真実、存在するのは真我だけである。世界、個我、神は真珠貝のなかの銀色の輝きのよ

うに、真我の内に現れるものである。これら三つは同時に現れ、同時に消え去る。


「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である。それは沈黙と呼ばれる。真我

そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり、真我そのものが神である。すべて

はシヴァ、真我である。



神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。自分自身を

神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたす

ら真我の内にとどまっていることである。



どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを

動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、ど

うすべきではないかと思い悩むのだろうか? われわれは列車がすべての荷物を運ん

でくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労す

る必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。