ラーマクリシュナへの見解
ラーマクリシュナを学んでいて
「人は行為していない、神が行為している」との、記述が多いのであるが、
それは、一体どのような事なのであろうか?
この部分は、初めて彼の言葉に触れる人が誤解しやすい部分といえるだろう。
これは、このラーマクリシュナの言葉を読んでいる人の段階がどの私を私と実感しているのか、によって大きく異なってくる
D:自分の事を肉体だけだと思っている人で、肉体の頭脳の働きが意識の殆どの人の場合。
C:自分の事を霊的諸体だと思っている「私と言う観念」「観念の私」を自分だと実感している人の場合。
(現在のパーソナリティーを自分だと感じている人の場合)
B:自分の事を魂だと思っている人の場合。
(自分は真我とは繋がっているが、他人とは別の、個としての魂であるから、神に帰還しなければ
ならないと、真我の「統覚機能である魂」を自分だという主体感覚を持っている人の場合である。)
A:自分の事を真の私であると、魂が覚醒している人の場合
(魂の内奥の第四の意識と、魂&現在のパーソナリティーが融合している人で、あらゆる人の私を私と実感している)
大きく分けてこのような、「どの私を私として実感しているのか」の段階によって、ラーマクリシュナの解釈は大きく異なってくるであろう。
自分の事を肉体だと思っている人は、当然に、自分の目の前にいる相手の人をも肉体だと思う事であろう。
自分の事を霊的諸体だと思っている人は、世界をそのように見ていて、いろんな霊的な諸体が他人の方だと思う事だろう。
自分の事を魂だと思っている人は、自分は魂であるから、その魂の目で見ており、相手も同じ進化の途上にある魂だと見ている事だろう。
自分の事を真の私だと、真の私に覚醒している人は、その真の私の目で見ているので、相手も自分と同じ神であると見ている事だろう。
勿論ラーマクリシュナはこの真我の人であり、神人であるから、自分の私は真我であって、全ての人や生き物や、生き物ではない
ものにさえ自分自身を見ているのである。
そこでこのラーマクリシュナを学ぶ我々が接する、彼の話す言葉で多いのが「人は行為していない、神が行為している」である。
この言葉を、どの自分の立場から読んで(自分の私をどのような私と捉えているか、どの私を私として実感しているのか)いるのかが
問題なのである。
肉体が自分だと信じている人は、行為というものを肉体レベル、肉体の側面からだけ見ており
神がそのような「嫌がらせ」をしたり、「憎んだり」するのであろうか?!!と、
その自分の立場から神を解釈し、自分の「色つき眼鏡」(条件付けの錯覚)から見たところの目でもって
(その色眼鏡で見ているように)「解釈されている行為」に、焦点を当てて、そのように思いこんで、神を邪推することだろう。
同じように、
それぞれの私達に於けるわたしという段階は
「どのように他人を見ているのか」・・・・ということで、その人の「目」でありその人である段階がわかるのである
その自分の段階を対象(相手)に転写して、他人のことや神を解釈するからなのである。
だから相手に悪を見て、相手の憎悪や、相手の敵対心を見ているものは、それは自分を投影し、転写しているのである。
悪魔や悪霊を見ているものは、悪霊や悪魔である私が自分になっている段階の人なのである。
ラーマクリシュナが如何なる人をも、「悪しき存在」のかたがたにも、どのような詐欺師にも、劣悪な段階のひとにも神のみを見て
神しか見ておられないと言うことは、
彼・ラーマクリシュナの私が真の私であり神の人であったことを証明している。
映し出されている現象の差異に騙されずに、差異のない実在を見ておられたからに他ならない。
如何なる人の中にも、完全完璧を見て、神なる人を見。
如何なる人の行為も神の行為であると看破することができると言うことは
それを看破しているラーマクリシュナの目が神の目であることを証明している。非二元の目であるからだ。分離していない目で
見ているのである。
もし私たちが真の私の段階であるなら、全ての人が(如何なる悪人であっても)神であり、自分と同一の同じ神であることを
発見しているだろうし
自分が真我であるなら、(真我の目であるなら)全ての人を真我であると看破し、その真我を全ての人に見ていることであろう。
ラーマクリシュナはその段階の私であるから
「人は行為していない。神のみが行為している」と言われたのではないだろうか
全ての人の中に神を見、神だけを見ているその目の中には、「神のみが行為しておられる」と、真の主体を見ておられたのであろう。
主体を(自分を)、誤って肉体だと思ったり、
「観念の私」や私と言う観念を自分だと思ったり
統覚機能である転生している魂を自分だと思っている、のは間違っているとラーマクリシュナは言う。
主体とは、
私といえるのは、
それらの「観念の私」や、肉体をはじめとする諸体ではなく、その諸体に入った統覚機能である魂でもない、
主体とはハートの内奥に厳然として実在している「愛である私」、全ての人々とまったく同一の「真の私」であるとラーマクリシュナは
言われるのである
そして、それが、その私が実際の実感であるとき「神が行為している」と言うラーマクリシュナのことが初めて理解されるのであろう。