戻る






なぜ苦しみを認識できるのだろうか?



苦しみとは何だろうか?

苦しむとはどういう事なのだろうか?

なぜ私達は、苦しみを感じることが出来るのだろうか?なぜ苦しみを認識することができるのだろうか?

私達は、苦しみの中でのたうち回っている。常に自分の満足を求め続けている。

そして、そこから脱出しようと藻掻いている。それは「わたし」なのであろうか?

苦しむ私は、本当に私であるのか?それともその私とは、「私だといっている観念」であるのか?

また、その苦しむ私を対象として観察している私とは、本当に私であるのか?私が対象として何かを観察したりはしないであろうから

この日常のわたしとは「自分を私と思っている観念」なのではないだろうか?その私は私ではないのではないか?

しかし、これらの事がはっきりと分かるのは

苦しみを理解し、全容を解明しない限りは、自他の苦しみを共感することは出来ない事だろうし、従って本当の自分も分からない事だろう

この観念の私では、なぜ苦しみというものがあるのかの理由を分かることはないし、苦しみを、直にそのまま見ることも出来ないことだろう。

苦しみを思考で捉えたり、自我の立場から観察したり、概念的に、推理推測しても理解は得られず、正見することは出来ない事だろう。

そして、本当の意味で、苦しみをそのまま曇りなく見ることが可能な「照見」のなかに於いては、苦しみというものが果たしてあるのだろうか?


苦しみの問題とは、とてつもない大問題であるし、現に苦しんでおられる方々を前にしては実際に何も申し上げられないし、一緒に苦しむこと

すら出来ない段階の私であるので、言う資格もないのであるが、あえて自分なりにこの苦しみという大問題を考察してみたい。



苦しみは、呼吸がある場合にのみ実感することができる。もし呼吸がなければ苦しみもない。

苦しみとは、「他人と分離している私」を実感している場合にのみ感じる事が出来る。その他人と異なっている私が感じられないときには苦しみもない。

苦しみとは、自分は肉体であり、自分が行為していると、このことを実感している場合にのみ存しており、自分は肉体ではなく、自分は行為していない
  
    ことを実感している場合には苦しみはない。そこには苦しみは存在していない。

苦しみは、それを苦しみだと認識することができなければ苦しみだと分からない。認識が正常に機能していなければならないからだ。
   
    肉体脳と諸体の脳が正常に機能し、連携して働いていないと苦しみを認識することはできないし、苦しみを感じる事すらもできない。

苦しみは、その苦しみを、自分の苦しみとして感じる事の出来る自己感覚、自己意識、主体を必要としている。苦しみを認識する分離している

    主体が必要であり、記憶の継続が必要であり、その「自分は肉体だと思う記憶である」自己・自我意識が継続して働いていることが必要である。

苦しみとは、その苦しみを味わっている私である主体と、その対象である苦しみが分離していないと成立できない。二元性が必要である。
    
    苦しみを自分の苦しみとして認識している二元分離性がなければ苦しみはありえない。二元の自他に分離している私という観念が

    なければ、苦しみも存在できないからだ。苦しみの知覚と認識には、自分と苦しみを別々のものだとする二元性が必要なのである。
   
    だから二元を超越して、苦しみを思考なく見る事が出来る魂の内奥の私には、行為もなく、従って苦しみもないのであるといえようか。

苦しみは、それを苦しみとして認識するために、感覚と、それを知覚して認識することの出来る頭脳や肉体などの媒体が必要である。

    又媒体だけではなく、無知である「私という観念」が必要である、苦しむためには無知が必要なのである。

    苦しみと感じている感覚や知覚は、それを認識している主体だけではなくて、その苦しみを伝える媒体である身体、諸身体

    神経組織、脳などのシステムの完全なる機能の存立が前提条件である。

苦しみは、何を持って苦しみと実感し、何を持って楽しみと実感するのかの判断基準、前提条件が、まずはじめに条件付けられていなければならない。

    苦しみを苦しみと感じ、それを苦しみと判断し、苦しみへの好悪の感情や、その苦しみから逃避したり、苦しみを判断する思考を生み出すためには

    その判断の前提となる、脳の「条件付け」が存在していなければならない。


この苦しみの感覚や、深い共感、知覚、そして記憶、さらにこの記憶の性質(自己自我の性質ということ)、即ち記憶から、どのように反応して、思い、

考え、条件行動するのか、などの複雑な機能と、そのシステムの連携した作動と運行・・・

これらの脳と、脳の条件付け、私達である記憶のそれに対する反応と、肉体と諸身体の連携、神経と筋肉と内臓との動き、脳内の素晴らしい

メカニズム、知覚作用、認識作用、記憶作用、そして記憶が生み出す主体感覚、等々苦しむためには、それらがすべてが必要なのである。


それらのどれ一つをとっても、この私達にとっては、それを生み出すことが出来るのだろうか?私達は当然それは自分のものだと思っているが

苦しむためには、それらのどれ一つとしても欠けているなら苦を実感することが出来ないからだ。

苦しんでいる私達とは、苦しみと同様に、生み出された結果であるものに過ぎないのではないだろうか?

その起こっており、やってきている観念や思考の、その頭脳の条件付けられた記憶から生み出される思考や感情によって私達は自分が苦

しんでいるのだと感じる事が出来きているのではないだろうか・・・

そのことを、論理的に見れば、(この私達の条件付けられている脳の意識でも分かるように)苦しみとは私達には生み出せないし、それを感じる事すらも

自分たちの力では不可能である。知覚も、認識も、判断も、記憶も、この素晴らしい脳という装置が働いているからであり、「私という観念」の力ではない

「観念の私」は、それらの感覚も、知覚も、認識も、判断も、記憶も、エレメンタルを生み出すことも自分が行い、自分がなしていると思っているが、

実際には観念のわたしは、頭脳を生み出すことも、その頭脳を機能させることも出来ないのである。


苦しみを、自分の苦しみと感じる事すらも自分である「現在の私」によるものではないのだ。



私達という記憶の条件反応としての意識、そしてその苦しみからの逃避行動、さらには逆に一体化の動き、価値判断、それらの何処一つを取って

みても、自己・私という「肉体を自分だと実感している主体意識の私」即ち「現在の私」が苦しみを作り出したのでもなく、感じているのでもない

ということは一目瞭然であることだろう。実は自我(観念の私)が苦しみを感じることすらも、自我には出来ないのだ。苦しみとは起きていることなのだ。

実際には苦しみを生み出し、感じられておられるのは、私達を通じた「真の認識主体」であるようにおもえる。そしてその根源が、行為し、認識し、

感じておられるのであるといえようか。



この苦しみというものは、「現在の私」によって生み出せるものではなく、
この苦しみを「現在の私」が、自分の力でもって感じられるものでもなく
この苦しみを「現在の私」が知覚し、認識し、維持できるものではない
この「現在の私」こそ苦しみを生み出し、感じ、維持している根源・マーヤによって生み出されているものであるならば
この苦しみを、私達の内奥にあって一緒に感じ、体験し、知覚しているのは根源である御方ではないだろうか
けれども、その内奥に於いては、二元分離が存在していないのであれば、行為もなく、従って苦しみもないことであろう。

この苦しみを理解することによって苦しみから解放されることを願っている私こそ、苦しみを理解することなく、〈苦しみと同根の〉苦しみを対象

として見ている記憶の自我・私である。


この記憶である私達こそ、苦しみを生み出し、認識している根源によって、生み出され維持されて

いるにも関わらず、この被創造物であり記憶である「現在の私」は自分が生き、自分が行為し、自分が感じ、自分が苦しんでいると思い込

んでいる私である。そしてその私とはラーマクリシュナによって言われるように〈根源によって演じられている〉私達ではないか。

大自然が大いなる至高の英知で生まれ生きているように、私達である自我も全くその一部なのである。だが被創造物は自分がその一部であることに

気がつかない。だが気がついても、気がつかなくても至高・至聖の大生命がこの生命である私達なのである。

根源によって「自分が生きて、自分が行為して、自分が感じて、自分が苦しんでいる」と主体感覚と自由意志の感覚を与えられているのが私達であり

その私達こそ、自分の人生だとして、そのように思い込んで生きている個人であり、特定の名前を持っていて、自分は肉体だと思い、自分が生きている

とそのように実感している現在の私なのではないだろうか。

けれども、別の観点から見た場合には、この現在の私とは、根源によって生き、生かされ、生きていると思い込んでいる記憶の私であると同時に、

その現在の私とは、魂である観照者から投射されている私でもあるのではないだろうか?究極的にはアートマンはブラフマンなのであろう。



それ故にこそ、この自分が生きていると錯覚し、自分は自由意志があると実感し、自分が行為していると信じている「現在の私」の反応が

非常に重要なのではないだろうか、なぜなら根源はその記憶の私を媒体として演じられ、知覚され、認識されているからではないか


この記憶であり、自由意志があると思い、自分の思考であり、自分の印象や、知覚だと信じこみ、自分が自由意志で行為していると錯覚している

「現在の私」の態度如何が非常に重要であるように思える。御心が天に成されている如く、地にも成されんが為である。

なぜなら、この行為していると思い込んでいる「現在の私」が魂の先端部分でもあるからである。

この「現在の私」の態度というものが、脳に起こっている思考や感情に対して、反応する事で、さらなる二次的な思考や感情を記憶から生み出

し続けるからである。これによりバルドの輪廻の輪が回り続けるのではないだろうか?

それが、私達である条件付けられている思考の記憶が生み出している想念形態、エレメンタルである。エレメンタルの世界である。疑似次元界

である。


このエレメンタルが今度は逆に物質化し、思考を持ち始め、想念が集合して強固な想念形態となり、自分の周りに疑似空間と疑似世界を生み出

すのではないだろうか、それがバルド界であり、虚像の世界である。

この神の創造されている物質界やアストラル界にさらに上書きしてダブらせている世界、その記憶からの想念が生み出した想念形態が混在しているのが

この現在の地球の現況の物質界やバルド界、低位アストラル界ではないだろうかとおもえるのである。