行為は為されていく
行為とは為しているのか、それとも為されているのであろうか?
行為とは起こしているのであろうか、それとも起こっているのだろうか?
行為とは現在のパーソナリティーの透明化によって「為すこと」から、「為されること」へと深化していく自動的なる
課程ではないだろうか?
聖賢は言う
行為は「ただただ純粋に見る事」によって
徐々に「為している」から、「為されている」へと移行していく。 と
行為から無為へと移行していく自動的なプロセスであると。
そして無為とは輪廻から解放されていく全自動的な行程であると。
現段階の私達は現在のパーソナリティーが透明化していないが故に
“行為を為している”。
故にカルマ・業に巻き込まれ輪廻に縛られる。
けれども、この「ただただ透明に見ること」の修練と真の私の学びの継続に従っての
見る事の深化にともない
即ち現在のパーソナリティーの利益に基づく行為から、行為の焦点が「御心のなるがままに行われ給え」に
変わっていくにしたがって、
行為というものも、〈瞑想やチャクラの状態の変化と同じように〉全自動的に為されるようになっていくと言われている。
それは現在のパーソナリティーの透明化に従って「ただただ見ること」が深化し、行為は「為す」から「為される」へ
と変化していくと言うことである。無為へと自動的に変わっていくと言うことである。
現段階の純粋化しておらず不透明な状態の現在のパーソナリティーにおいては
行為とは、確かに現在のパーソナリティーによって為されている、といえよう
けれども、この無為と言うことは
あるがままを「ただ見る事」の継続的な修練を通じて、
行為は為すことから、行為は為されているに自動的に変わっていくことなのであって
現段階の現在のパーソナリティーに於いては、「行為をしていない」との言明は虚偽の言明となってしまう。
行為をしている、すなわち「為す事」から、「為されている・無為」への自動的なる深化とは
あるがままをただ見る事によって起こる自動的なるプロセスである。と
それは徐々に輪廻の根本原因である「行為・為す事」からの解放の始まりとなることだろう。
“自分が為している”ということがカルマ、すなわち行為・業であり〈行為を為す事という輪廻の動因〉であるから
自分は為していない、
すなわち無為とはカルマからの、輪廻からの解放へと自動的に行われるプロセスであり
それの導因こそ(それが起こる事の条件とは)
純粋なる目によって、思考に拠らず、透明で純粋なる思考によって
あるがままを「ただただ見ること」に他ならない。