これで良かったのだ
全てはこれで良かったのだ、と
すべてを完全肯定、
全生涯のすべての人生を完全肯定をする
或る悟った賢者の言葉を紹介させて頂きます
『これで良かったのだ
全てはこれで良かったのだ
地上に生きることは実に甲斐のあることだったのだ
全てはこれで良かったのだ
変わること、変更することとはいささかも必要なかったのだ
悔やむこともいささかも必要なかったのだ
全てはこれで良かったのだ
幾多のこの人生は、これで良かったのだ
後悔することは何もなかったのだ
全てはこれで良かったのだ
幾多の過去世のあらゆる全生涯の人生の全てはこれで良かったのだ
無駄なことは一つもなく、全てがあるようにあったのだ
よかった、よかった、全てはこれで良かったのだ
変える事も悔やむことも何も必要なく、これでよかったのだ
すべてはこのままで完全完璧であったのだ
現世も全ての過去世においても無駄なことは一つもなく
甲斐のないことはなにもなかったのだ
よかった、よかった、これで良かったのだ、全てが完全完璧だったのだ
過去の後悔もなく、変更もなく、全ての全生涯の全てが完全完璧であったのだ
過去及び現世の人生は本当に素晴らしいことだったのだ
過去世及び今世の生は実に甲斐のあることだったのだ 』
以上或る賢者の言葉の紹介です
私久保栄治としては
この言葉は非常に解釈が難しいとおもいます
頭脳がマインドを受信し、脳の条件づけによって生み出している記憶の反応であるところ
の「自我」にとっては、(付与されたDNAによって頭脳の状態が天才であっても)
この言葉を「自我の自己」(頭脳の記憶の反応)の立場から間違って解釈するでしょうし
魂から投射されている「現在のパーソナリティー」の意識では、この言葉に反感するでしょう
また統覚機能である分離(私と言う観念)と同一視してしまっている魂には、
自分が生きていると思い、自分が自由意志でもって行為していると錯覚している自我や
行為の主体であるところの根源からの潜在意識や無明と同一視しているので違和感を感じ、
この言葉を曲解することでしょう
この言葉は実に頭脳の意識でもなく、その頭脳の記憶の反応である自我の意識でもなく
魂からの現在のパーソナリティーの状態でもなく、
マインドである「私と言う根本観念」の無明の意識でもなく
その二元分離と同一化している魂の状態の意識でもありません
この言葉は実に魂を覆っている無明である潜在領域「私と言う観念」の根底の底まで
たどり着いた心が述べている真の私と一つになっている状態の言葉だと思われます
魂が魂の内奥の真の私に統合している、自他に分離していない、全ての万物と同一で
ただ一つで全体である普遍の意識の状態からの言葉だと思われます
従って、この言葉をどのように見るのかは
見る側の意識の立ち位置によって変わることでしょうが・・
私久保栄治には、この言葉を理解するはできません
このような実感は未だ遠い希望に過ぎないからです