キリストと十字架
キリストの十字架とは何を示しておられるのであろうか?
あの磔は一体何のメッセージであったのか?
それは『死ぬこととは即ち再生』であって
復活とは死を通じて成就されることを示しておられるのではないか。
熟睡や夢見や覚醒時の思考ではなくて、途切れることのない継続する意識というものは
キリストの十字架を通じた復活によってのみ顕れるのである
と、それは示しておられる。
意識には死ぬこともなく誕生することもなく、私とあなたの分離もない。ひとつであるからであると。
十字架の死とは死ではなくて再生であり、それは愛であることを示しておられる。
キリストは愛であるから、身を以て愛を示されたのではないか。
十字架の死とは自我である思考が行うことではない。
それは行為していると思っている自我による行為ではないからだ
磔とはキリストである根源によって起こる事である。それが自我の死、十字架であるのではないか。
「私と言う観念」の思考が、「栄光の死」を通じて愛のために磔(自我が死ぬこと)されることが訪れるとき
そこに思考は意識として復活することを示しておられる。
思考(自我)の死とは、決して死ではなくて、それは蛹から蝶へと変容するために必要なプロセスなのである。
思考の死を通じて、即ち思考である自我の磔を通じて、意識がそこから現れてくると推測される。
思考とは意識が支えていたのであり、その意識が顕現するためには思考の死が不可欠なのではあるまいか。
意識があるから、意識が基底で実在していたからこそ、この思考が現象することが可能なのではあるまいか。
自他に分離せず、時空間に分離していない普遍の意識は愛の中で、それゆえ思考の十字架を通じて、顕現
してくるのではないか。
それは起こるのである。顕現してくるのである。思考が脱皮して、本来の意識=愛が顕現してくる。
思考(私と言う観念)の死を通じて、初めから在った本来の意識・愛が顕現する・・・と。
なぜなら意識でないものはなく、意識は主体も客体も含んであり、時間も空間も含んでいるからであり、思考すらも含んでいる
のではないか。
意識には私とあなたの分離はなく、自他の区別もなく、敵味方もなく、善も悪もない、全てでありそれは愛であるからだと。
対象が無く、全てが一つである意識の中にどうして、完全以外の「善や悪などといった思考」があるというのであろうか、
そこは全てが一つであるからだ
そして、そのときそれを見ている私はいないことだろう、「わたしこそそれ」であることが思い出されるからである・・と。
思考とは物質である。思考である物質(質料)が知覚されているとき、知覚者が残存している・・、
だからそこには対象との分離、自他の分離、善悪の知覚があるのではないか。
心の中には体験している体験者、行為している行為者、それを対象として見ている分離した観察者がいる、
それが自我であり、知覚者であり、観察者であり、その私らこそ「私」ではないものだと教えられている。
この磔を通じて顕現する意識は過去現在未来を成立させ、此処とあそこという空間を成り立たせ
見るものと見られるものという主体と客体の分離という錯覚をならしめていたものであり
思考が愛の中で磔になることで(蛹から蝶へと脱皮・変容するように)成就する・・と
それは
思考の「私と言う観念」である自我が、自らが動機と目的を持って「全託したり」「瞑想したり」「磔にかかろう」とする
そのような自己中心的である(自己の利益を目的としている)自己欺瞞の行為ではない。
思考が思考を直視しているとき、そのような自己欺瞞の行為にふけようとすることはありえないからである。
「全託すること」「瞑想すること」「磔にかかること」とは思考の範疇にはない。
思考である自我がそれを行おうとしても、それは欺瞞である。
思考自身が「全託」「瞑想」「磔」に反しているものであるからだ。
思考とは自我であり「私と言う観念」であり、自他を分離しており、無知・錯覚を本性とする幻影であるものだからだ。
「全託」も「瞑想」も、「死ぬこと」も思考の範疇にはないのである。
それらは思考(私と言う観念)による利己的行為ではないからだ。それは意識である愛であるからだ
思考である自我は、自らの根源を知らない、知ることを求めない。
自らが根源から派生してきていることを知らない。根源の結果であることを知らない。
鏡である心が、自らの根源へと至るには、復活が必要なのである
鏡に映っている自我(私と言う観念)は私ではなく、投影されている思考であることを直覚しなければならないのではないか
自我の死を通じて、鏡である心が蛹から蝶へと変容するためには、磔というプロセスを経なければならないのである
それがキリストがお示し下さった磔であると思われる。
思考は愛の中で自らが十字架になることで、自らの基底である意識へと復活するのだ
愛ゆえに、愛だからこそ磔で自らが死ぬことを演じられて見本を示されたのである。
そのことをキリストは磔の十字架を通じて示しておられるのではあるまいか